国境線上の蟹 16

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ブラジル、その遠いエコー(4)
〜正しい世界が消え去った夜に(前)
 
 
独り言:
 ここ数回、ブラジル日系移民社会のことを書きながら、過去に起きた「ある分断」について小出しに言及してきた。
 この連載は基本的に自分が旅をする中で実際に出会い、見聞きし、歩いて触れた人や物事をきっかけに、その背後に横たわる歴史について考察を巡らすという方式で書いている。固有の語りを入り口としなければ、人の一生を超えた長い時間軸へと繋がる言葉を紡ぐ上で説得力に欠けると思っているからだ。
 だが、これから書こうとする事柄に関しては禁を破り、残された資料のみをもとにしてでも書かなければならない。理由はふたつ、もはや直接の当事者に会うことは叶わないことと、これは我々が、我々自身の「今」を考えることに深く接続する出来事でもあるからだ。
 気が重いけれど。 (独り言:了)
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〈PAZ! O JAPAÕ ACEITOU A RENDICAÕ INCONDICIONAL〉
(平和だ! 日本は無条件降伏を受け入れた)
 1945年8月14日付、日本時間では8月15日のブラジル新聞「Folha da Noite」(夜の新聞、というくらいの意味なのでおそらく夕刊紙)の1面に、こんな言葉が躍った。
 8月15日は、言うまでもなく日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した日である。日本に住む我々の認識では、この日をもって戦争は終わったことになっている。だが、ブラジル日系社会においては、この日付は「終戦」を意味しなかった。
 日本降伏の報が新聞を飾るや、この日から翌日にかけて、サン・パウロのセー広場や隣接する大聖堂、そして「コンデ街」と呼ばれた日本人街を、無数の日本移民が埋め尽くした。いや、ただ右往左往していたと表現するほうが正確だろう。サン・パウロ市内はもちろん、周辺のコチアやガルーリョス、遠くはアリアンサやマリリアなどの入植地からやってきた人も多かった。彼らが求めていたものは新聞やラジオ放送、つまり「正確な情報」であった。なぜなら、彼らの多くはそれまで、日本語の新聞やラジオに触れることを禁じられ、何ひとつ戦況について知らされずにいたからである。
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 1920年代、ブラジルの大都市圏は空前の高度成長機運の最中にあった。コーヒーの価格は高めに安定し、サン・パウロはその生産や流通の中心地として急速に都市化・工業化。経済のみならず、文化や芸術においてもヨーロッパの影響を脱し、自国民の手で世界に伍することができるものを作ろうというブラジル版モダニズムが花開いた。第13回でも言及したタルシーラ・ド・アマラルなどはその典型であり、母なる大地や農園労働といったブラジルの礎を築いた要素を超デフォルメした形で表現する彼女のプリミティズムは国民的な支持を集めた。
 だが、1929年のウォール街における株価大暴落をきっかけにして起こった世界恐慌によって、ブラジルのモダニズムは終焉する。経済の根幹を支えていたコーヒー価格が暴落し、芸術家の主なパトロンであり政治的な影響力も大きかった大地主や富豪たちの支配体制が揺らぐと、軍部の青年将校や都市部に新興してきた中産階級の支持を集めた元大蔵大臣ジェトゥーリオ・ドルネレス・ヴァルガスがクーデターを起こして政権を掌握。1934年に正式に大統領の座に就くとさっそく権力を自らに集中させるよう憲法を改正、共産党などの野党を弾圧に走る。1937年には大統領選そのものを軍部を動かして中止させ、ついには議会を解散。ブラジル国家のアイデンティティを第一義に掲げ「エスタード・ノーヴォ(新国家)」と言われる独裁体制を敷く。すなわち、大恐慌後に訪れた不景気と社会不安を経て独裁政党や軍部が政権を握ったドイツ、イタリア、そして日本とほぼ同じことが、ブラジルでも起こっていた。
 ヴァルガスは政治的にも経済的にも、そして文化・芸術・思想の面においても国民を厳しく統制することによる国家統合を目指し始めた。その矛先が向いたのが、当時徐々に社会の中で存在感を発揮し始めていた日系移民たちだ。ブラジルと同じように軍部の突出が顕著になっていた日本が1931年に満州事変を起こすと、母国への国際的非難とともに移民たちへの排日感情も高まり、1932年にはそれまで各地のコロニア(入植地)にあった日本人学校に対する官憲の監督・取り締まりが法制化された。1938年には他国からの移民も含め、農村地帯におけるポルトガル語学習が不十分であるとして14歳以下の児童に対する外国語教育を禁止。教師もブラジル生まれのブラジル人に限定すると法で定められた結果、日本人だけで固まって暮らしていた農村地帯の日本語学校は、その多くが閉鎖を余儀なくされた。
 1940年、日本・ドイツ・イタリアの三国軍事同盟が結ばれると、「枢軸国」と呼ばれた3国への国際感情はより悪化。同じく独裁政権であったブラジルだが明らかにこれら3国とは距離をとってアメリカに接近し、いよいよ日系移民たちは圧迫されていった。翌41年8月、政府はポルトガル語以外で書かれた新聞の発行禁止を命じている。実際、日独伊の3か国の人間が大部分を占めていたブラジル移民社会において、これは大きなインパクトがあった。『聖州新報』を皮切りに『ブラジル朝日』『ブラジル新報』といった日本語新聞も次々に廃刊となり、さらに同国人同士の集会も禁止された。ポルトガル語の話せない一世もまだまだ多かった日本移民たちの多くが、教育と情報から隔絶されたことになる。

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〈亜細亜人は亜細亜に帰らねばならない、東は東、西は西だ〉
『聖州新報』社長の香山六郎は、7月30日付「廃刊の辞」においてこう述べている。実際、ほとんどの移民一世はほんの出稼ぎのつもりでブラジルに来た農民が大部分を占めていたため、ひと財産築いたら日本に帰ろうと思っているものや、当時日本が満州や朝鮮半島、台湾などに権益を伸ばしていたため、故国に近いそれらの土地への再移住を希望するものが多かった。この「廃刊の辞」には、暗に「ブラジルが我らを受け入れないのであれば、こちらから願い下げだ」という気概も感じる。
 一方で、特に日本が軍国主義に傾き始めた1930年代以降にブラジルに渡った「新移民」と呼ばれる人々によって、移民たちの間には次第に皇国主義・軍国主義が浸透していた。ブラジルのナショナリズムに対抗するという大義名分はより日本のナショナリズムを先鋭化させ、萌芽し始めていたブラジルへの永住や同化論は異端とみなされるようになった。現人神である天皇の赤子として、我らはこの土地を帝国の版図に加えるための大事な先兵として踏みとどまり、天皇の御名において帰還が許されるまで戦うのだ——そう信じるようになるものもいた。学校や集会は禁止されても、家々や各集落を遊説して皇国主義を説いて回るような軍人崩れの弁士もいた。
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 そして1941年12月8日、日米開戦。
 翌年1月25日、ブラジルは日本との国交を断絶した。28日にはサン・パウロ市内の日本人家庭や日本人商店に「大日本帝国大使」の名でビラが配られた。〈大国民トシテノ襟度ヲ失ハズニ自重シ(中略)在留民諸君ノ健在ト幸福ヲ心ヨリ祈念スル〉と書いたこのビラを残し、翌日にはブラジルに駐在していた日本の石射猪太郎大使をはじめとする外交官や大使館員は全員、リオ・デ・ジャネイロから出る交換船で早々と日本に引き揚げてしまった。
 あとには、約25万人とも言われる「敵性国民」が残された。「コーヒーは金のなる木」という甘言に乗せられて実質ほとんど口べらしのようにブラジルに渡り、艱難辛苦の上になんとか生活を築き上げて来た移民たちは、再び、そして決定的に、日本国家に棄てられた。
 次々に日本人の銀行預金が凍結され、不動産や金融資産が没収され、そして家を追われた。都市では兵舎や行政施設、または港湾などから500メートル以外に住んでいる日本人は強制退去させられ、日本人街も取り潰され、農村では自分たちが苦労して拓いた土地の所有者になったアメリカ人に着の身着のまま追い出され、言いがかりのようなスパイ容疑をかけられ、収容所や牢獄に入れられた。日本人同士の集会は禁止されているため結婚式などは黒い布で目張りをした家の中で夜間に行い、それでも灯りが漏れていれば上空を巡回する偵察機から白い粉が落とされ、翌朝にはそれを目印に警官が踏み込んできた。母国の元首の肖像画や写真を飾ることも禁止されていたため、天皇の御真影などを飾っていた家ではそれすらも容赦なく没収され、あるものは警察署でそれを踏まされ、踏まなければ拘留されるということもあったという。
 半田知雄『移民の生活の歴史』第3巻(1970 サンパウロ人文科学研究所)によると、無実の退役伍長が警官数人に蹴り殺され、その葬儀に集まった二十数名が逮捕されたり、家宅捜索に来た警官に現金までも奪われ、抗議した親子が射殺されるといった、もはやヘイトクライムとしか言いようのない迫害まで起こった。そして、情報収集の最後の手段だったラジオも没収された。
 ブラジル人のインテルベルトール(監督官)や担当の警官などがたまたま寛容な人物だったことや、そもそもそれほど情勢が緊張していない地域だったことによってこうした抑圧を逃れた日本人もいたが、多くはまるで犯罪者のような扱いを受けながら耐え忍んだ。運よく没収を免れたラジオから途切れ途切れに聞こえてくる東京のニュースで、マレー沖、シンガポール、などでの日本軍圧勝を聞き、「神国日本は必ず勝ち、そして我々を迎えに来てくれる」という希望を膨らませていったのだ。声も立てず、ボリュームも最小限に絞って、明日をも知れぬ無明の闇の中で。

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 ミッドウェイでも、マリアナ沖でも、ガダルカナルでも、日本軍は勝っていた。ラジオから聞こえてくる、大本営発表の中では。ラジオを持たず、新聞も読めない農村の多くの移民は人づてにそれを聞き、日本の来るべき勝利、そして栄誉の帰還の日を待ちわびた。
 そうこうするうち、日系社会の中である事件が発生した。きっかけは、生糸とハッカ(ペパーミント)の価格が高騰したことだった。
〈この異常な値上りは唯事ではない。絹はパラシユートに使われるに違いない。ハッカも何か戦争に欠かせない事に使用されるので、此のベラボーな値段が払われるのだ。此の様な利敵産業に従事する事は売国行為だ、養蚕小屋を焼き払え、新しく植える苗は抜いてしまえ、ハッカの蒸溜小屋も焼き払えという理論で、焼き討ち事件が起きたのである。実際にそう思った熱血漠も居たであろうし、仕事に乗りおくれて他人の儲けをねたんで、火付けに廻った者もいたのではないかとも噂されていた〉(『信ちゃんの昔話8 戦争と移民』沼田信一著、牛島襄画 2001 ブラジル移民文庫)
 迫害を受けたことでかえって燃え上がる国粋主義の熱に浮かされた日本人が、同じ日本人を襲う。それは、その先に待つ陰惨な運命の序曲であった。
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 1945年8月15日、終戦。
 情報がほぼ途絶する中、ラジオの大本営発表に頼っていた人々の耳に、突然の玉音放送が飛び込んできた。ラジオを聞くことのできていなかった多くの移民には、サン・パウロ発行のポルトガル語新聞を読めるものの口から、または事情をよく知る農場主や警官などの口から、「日本の無条件降伏」が伝えられた。
「日本は勝っていたのではないのか。無条件降伏とはどういうことだ」
 そんな声が、各地のコロニアに充満した。コミュニティの有力者や学のあるものたちは、こぞって「中央」(サン・パウロ市内)まで様子を見に行き、発行されている新聞や雑誌などを買い込んできて、自分たちも同程度の情報しか得ていない突然の敗報について、しどろもどろの翻訳をしながらの状況説明に追われた。「敵性国民」扱いの屈辱に耐えながら祖国の勝利、そして自分たちの凱旋またはアジアにまたがる帝国の新版図への移住を夢見ていた移民たちにとって、それはすべての望みを絶たれるような出来事であっただろう。
 そんな中、その翌日あたりから、早くも日系社会に出所定かならぬ情報が乱れ飛び始めた。
〈自分でいれた妙な味のするコーヒーとパンで昼食をとっていると、房子が戻ってきて、ほてった顔で夫に声をかけた。
「あんた。日本は大勝利とよ」
「なに——」
小牧はコーヒー茶碗を持ったまま立ち上がった。
「みなさん、来ておられて、なんでも東京湾に集合した敵の船をコウシュウハとかいうもので、全部沈めたそうよ。これで戦争は終わったと、ラジオ放送があったから間違いないそうです」〉(『遠い声 ブラジル日本人作家 松井太郎小節選・続』松井太郎著、西成彦/細川周平編 2012 松籟社)
「日本は勝っている」——。
 絶望と虚無の中から突如現出したこの言葉によって、以降数十年にわたってブラジル日系社会を引き裂き続けることになる「もうひとつの戦争」の幕が上がろうとしていた。

(次回に続きます)
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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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