ひまの演出論 1

わたしは散歩が好きで、親に叱られるとよく家出する子どもだった。家から追い出されることもなくはなかった。そういう時には近所の色々な道を漫然と歩いた。実家は東京のなかでは比較的樹が多い場所にあって、昼間はそのそばで近所の大学生が立ちションをしたり、馬が歩いたりしているが、追い出されるのはたいてい深夜だ。だいたい夜七時か八時くらいから怒られはじめて、追い出されるかこちらから出ていく運びになるのは二十一時から二十三時ごろが多い。
今そのようにして追い出され、ただひたすらに歩くその道を思い出すと、まわりに夜遅くまでやっている店もない、ただ桜の樹が数百メートルにわたって整列しているような道、黄色い点滅信号に照らされる葉っぱの擦れる音ばかりが印象に残っている。その家にわたしは中学から大学卒業まで十年ちかく住んでいて、まさか十年分ということはないだろうけれど、わたしに思い出されてくるこの道の風景は、特定のある日ある時間の記憶ではなく、いくつかの時間が寄り集まった厚みによって、ある感触-空間がつくられている。夜中から明け方にかけての草いきれのにおい。馬が横断歩道を渡る朝の足音。部活が終わって上村との帰り道を歩くわたしの、汗でべとついた肌の感触。風景から一瞬遅れてやってくるそれらは、圧縮された思い出の中では、時間の区別がない。
ごくたまに実家に帰ると、そういう全体が一挙によみがえる。それはある種の受動的な感覚で、だからわたしが思い出しているのではなく、道がわたしを媒介して過去をよみがえらせていて、そのことがわたしにとっては思い出すという行為として現れているといった方がしっくりくる。ノスタルジーとかエモいとかいうものではなく、もっと即物的に、身体の老いだけを残したまま、自分が十代でもあるような感じ。あるいは道を歩くわたしが目の前の風景に過去の思い出を重ねているのではなく、わたし自身も含めたこの道全体が十年前でありながらそれ自体現在でもあって、ただ器としての身体だけは未来として取り残されてしまった、そんなような感じ。
そうして取り残されつつも身体のなかで過去や未来が絡まりあう、わたしはその絡みそのものとしてある、と書いてしまうとしかし収まりが良すぎるかもしれない。

ただ、そう考えるようにしてだけ感じられる風景や思い出があり、他方で、わたしには触れることができない、ということでしか知ることのできない風景がある。
保坂和志『猫がこなくなった』という短編集の表題作は、分身の主題を扱った作品として凄まじいだけでなく、保坂の小説はどれもそうだが、作者が実際に猫と接してきた長い時間が、一文一文に埋め込まれている。最初に読んだとき、自分にはこの小説のことは多分一生分からない、と思った。なにしろ保坂と猫の時間は、わたしが生まれてから今までの時間より長い。それは共感したり理解したりするものではない。今分からず、多分これからも分からない時間の厚みが、風景や思考や、言葉というかたちでこの世界に存在するということを、分からない、というかたちによってのみ感じる。そのことのよろこびが、この小説を読んでいるとじわじわ浮かんでくる。

この連載にはさしあたって「ひまの演出論」というタイトルをつけた。昨年初めに会社をやめてから作品制作を除けば無職のひまな日々、いよいよ生活も追い詰められている。「老後を考える」というこのコーナーに沿って言えば、老後なんか尋常じゃないくらい不安だ。しかしそれは、今のうちに貯金しておかないと後々大変だとか、就職しておかないと取り返しのつかないことになるとかいうもので、それはわたしの不安ではなく、社会から押しつけられたものでしかない。老後を、数十年先のことを考える、その不安や焦りをやり過ごすために、労働や貯蓄や諸々の経済活動をすることは、現状の社会のシステムを容認することにつながるのではないか。
そういう不安や焦りに抗うようにして、昨日、今日の、ひまな時間に考えたことを、なけなしの言葉で書く。

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◾️プロフィール
山本ジャスティン伊等
カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
Dr. Holiday Laboratory主宰。演劇/テキスト制作。
主な作品に『うららかとルポルタージュ』、『脱獄計画(仮)』など。

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制作日記 https://justin-holiday.fanbox.cc/
Twitter https://twitter.com/ira_they