ひまの演出論 2

あるものと無いものの隙間

山本ジャスティン伊等

夏を甘くみていた。
キャベツの話だ。一人暮らしを始めてすぐの頃、キャベツを腐らせた。
カットするとそこから栄養が出てしまうからキャベツは一玉になっているものを買った方がいいと、母親の友人だったか、友人の母親だったか、とにかく私を含めた何者かの母親と繋がりがある大人から聞いた気がして、わたしはそれを今でも信じていて、カットされたものではなく一玉まるまる買うことにしていた。しかし自炊のレパートリーが少なかった二十歳そこそこの私にとって、一玉買うことはいつも覚悟が必要だった。
だいたい四分の一くらい食べれば、その瞬間のキャベツを食べたい欲は満たされるのだ。さらに四分の一をスープとか野菜炒めに入れるとして、残った半玉をどう食べるか、いつも問題になった。
キャベツは一人暮らし用のちいさな冷蔵庫の中で、それなりに場所をとる。私は冷蔵庫を開けるたびに、別の食べ物や飲み物を出すときであっても、視界の端にあるキャベツをいつも意識していた。
冷蔵庫はいつからか奥の方に入れたものが凍るようになっていて、野菜など2日くらい放置するとシャリシャリなる。わたしは葉の先を半透明にしながら凍っているキャベツを想像して、どうしたらいいか分からず、放置しつづけた。私はキャベツをなるべく見ないように冷蔵庫から物を出す技術を身につけていった。
そのようにしてキャベツは腐った。
冷蔵庫から出していないから、まだ大丈夫だろうと思っていた。夏を甘くみていた。生ゴミをさらに煮詰めたような、ちょっと驚くくらいの臭さだった。燃えるゴミの前日で、ルール違反だったが夜中にゴミを出した。私の真上に住んでいて、毎週のようにホームパーティーをしている、三、四人でルームシェアをしていると思われる外国人の一人と鉢合わせた。

数日後だったか、とにかくそのキャベツを忘れかけた頃、引っ越して初めてゴキブリが出た。今はもう無いキャベツの悪臭に誘われてきたのだろうと思った。
ところでその、「今はもう無い」というのは、視覚優位の人間にとってだけなんじゃないか。特に視覚よりも嗅覚優位の虫などからすれば、そこに存在している、とまでは言えなくとも、やはりキャベツを感じさせる匂いはまだ確実に残っていて、そうである限り、まったく無いわけでは無いのかもしれない。
あるいは、ここに存在することとしないこと、生きていることと死んでいることの隙間に、「ここにいるわけではないが、全くここにいないわけではない」「生きているわけではないが、もう死んで消えてしまったわけではない」という状態がある、という風にも言える。

《その村では夏になると毎年、
自ら生贄に志願する者が現れるのだが、
村民の誰もそんな風習や彼らの身許に心当たりがない。》

《そこで様々な事故や事件が起こってきたのに、
お祓いに来た人を含めた全員が「誰の気配もしない」と話す204号室》

怪談作家・梨の、「逆」「逆2」と書かれたツイートの一部だ。この文章はある種のレトリックでもあるわけだが、それでも、「心当たりがない」「『誰の気配もしない』」と存在を否定することが、存在しないことの否定としても同時に機能していて、存在する/しないの二項対立が成り立たなくなっている。このツイートにある、さらにいくつかの梨の文章を読んでいると、「存在しないものが、存在しないがゆえに、存在する」という思考のありようがリアリティを帯びてくる。

先ほどのゴキブリの例では、身体の感覚を基点にして二項対立が崩されたわけだが、梨の文章では、存在しないものにまつわる思考が奇妙に押し出されることで、現実に存在するものと区別がつかなくなる。
そういうことを考えていると、あることと無いことの二項対立は、単にこの社会を運営しやすくするためのフィクションに過ぎず、存在するものとしないものが常に混ざりあっているという世界観の方が自然だ。

とはいえ(手のひらを返すようだが)、生き物や物質が現実に存在していることには、代え難い何かがある。
わたしが主な表現ジャンルとしている演劇は、目の前に人が存在することによる強い現前性が、ジャンルの強みとされる傾向にある。それは、単に舞台が目の前にある、というようなことではないはずだ。現前性の強みとは、あるものが現実に存在することによって、それとは別の仕方でもありえたという、さまざまな可能性を内包できるということだと、わたしは演劇を作っていて繰り返し感じてきた。
目の前の舞台は、別の演出や演技で表現することも可能だった。しかしそれは、上演が行われることによって初めて感じられるものだ。わたしたちが生きている社会は、出来事や行為が未だなされていない状態を「可能性がある」と考えがちだ。しかしそうではなく、目の前に人がいること、あるいはキャベツがそこにあること、そのように現実化したものだけが抱えることのできる可能性というものもあるのではないか。
ああでもありえた、こうでもありえた、という可能性を、現実の存在が支える。それは強く、当の存在を肯定することになる。

これを書いている今日は6月6日で、去年の同じ日に、実家で長いあいだ飼っていたピーチが死んだ。わたしと母が近所のお寺でささやかなお葬式と火葬を済ませて実家に戻ると、彼のお気に入りだったいくつかの場所から、チーヨ!チーヨ!と空耳が騒がしかった。
わたしにとって、この世界で生きていることのよろこびを体現しているような小鳥だ。

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◾️プロフィール
山本ジャスティン伊等
カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
Dr. Holiday Laboratory主宰。演劇/テキスト制作。
主な作品に『うららかとルポルタージュ』、『脱獄計画(仮)』など。

web https://drholidaylab.com
制作日記 https://justin-holiday.fanbox.cc/
Twitter https://twitter.com/ira_they