ホームフル・ドリフティング 20
もてスリム
♯20 『ロスト・ハウス』と「ノンホーム」
連載二〇回を迎えてなお同じようなことばかり書くようで申し訳ないが何度でも書く。この連載は世界のあちこちにホームを見出し、どこへでも「帰る」ことを可能にする。少し矛盾しているように聞こえるかもしれないが、それはホームからその特性を奪い、ホームへの依存を解消することなのだと思う。
当事者研究で知られる医師・熊谷晋一郎は「自立」を「依存先を増やすこと」と表現しているが、ホームフル脳になったいまはこの表現さえもホームについて語っているように思える。わたしたちは通常帰るべき自宅がひとつしかないのであって、だからこそ終電をなくすと「家に帰れない」という現象が発生する。換言すれば、わたしたちは自宅に依存している。この依存を解消しわたしたちが「自立」するためには、「依存先を増やす」=自宅を増やすことが重要となる。ほら、やっぱり熊谷先生の言ってることはホームフルにも通じているじゃないか。なんて書いてると怒られそうだからほどほどにしておくけれど。
この見立てに従うならば、ホームにおける自立が実現することで自宅の特権性は剥奪されてしまう。かけがえのない場所だったはずの自宅は、いくつもあるホームのうちのひとつでしかない。固有名詞から、普通名詞へ。自宅もオフィスもホテルも並列で、どれも等しく普通名詞的な「ホーム」でしかなくなってゆく。あらゆるホームは交換可能だ。ホームフルとは、さまざまな居住(可能)空間のなかから公約数を導き出し、そこにホームを見出そうとする振る舞いなのだろう。
みんなも自立するためにホームフルを実践せよ!と言いたいわけではない。むしろ、自立など目指さなくていいような気さえする。だって、あなたにとって固有の存在だったホームを普通名詞的な空間に変えれば変えるほど、そこはホームではなくなってしまうのだから。ホームとはある空間を特権化することで成立しているのであって、特権を剥奪すればその空間はなんでもなくなってしまう。世界中のホームが無化された先には、ホーム「レス」さえ存在しない。強いて言うならノンホームだ。ホー無。
漫画家・大島弓子は『ロスト・ハウス』という作品のなかでまさしくホームフルから転じてノンホームな状況に陥った青年の姿を描いている。ネタバレになってしまうのが心苦しいが、本作に登場する青年は鍵をかけずに暮らす生活を続けていたが、ある事件をきっかけに家を出てあちこちで暮らすようになる。そしてそのことを大島は次のように表現しているのだ。「ああ 彼はついに 全世界を 部屋にして そして そのドアを 開け放ったのだ」。家を出た青年の様子は作中で「ホームレス」と表現されているが、本連載に準ずればホームフルでありノンホームだろう(本連載に準じてどうするという話だが……)。
果たして、ホームフルはノンホームに転落せざるをえないのだろうか。ノンホームにもホームレスにもならないホームフルはありえないのだろうか。それは、固有名詞的でありながら普通名詞的に生きることだ。しかしそこにこそ、オルタナティブなホームの可能性がある。じゃないと、ぼくも『ロスト・ハウス』いうところのホームレスになってしまうから、なんだかちょっとさびしい(同作の青年は、それでも清々しく生きているけれど)。
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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
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