ホームフル・ドリフティング 21
もてスリム
♯21 豊島区南大塚のWi-Fiルーター
二年前の春。ルームシェアをやめて、一人暮らしを始めた。引っ越してきたばかりの部屋にはパンパンになった段ボール箱が散らばっていて、家具や洋服、書籍をそこから少しずつ取り出してゆく。生活に必要なものは山ほどあるが、真っ先に取り出さなければいけないのはWi-Fiルーターだ。さっさとこいつを取り出してインターネットの設定をしなければ生活は始まらない。
ルームシェアの同居人から借りることになったアップルの「Time Capsule」を段ボール箱から取り出して、ホームセンターで適当に買ってきたLANケーブルをつなぐ。iPhoneのWi-Fiをオンにして、ネットワークを探す。するとそこに表示されたのはルームシェアをしていたときに使っていたネットワークの名前で、もちろんパスワードも同じものだった。
Wi-Fiの仕組みを知っている人にとっては、当たり前のことなのかもしれない。でも、ぼくはその瞬間にこの部屋が慣れ親しんだ「ホーム」で満たされた気がしたのだった。間取りも見た目も何もかもが違ったが、しかしそこにはルームシェアをしていたときと同じ「ホーム」が立ち上がっていた。
それまでのぼくにとって、Wi-Fiのネットワークというのはあくまでも特定の場所/施設/土地にひも付いているものだった。だからiPhoneが自動でWi-Fiに接続してくれると、自分がかつてその場所にいた痕跡のようなものをWi-Fiのネットワークからたぐりよせているような気がして嬉しかった。とりわけ海外の空港を飛んでいるWi-Fiは最高だ。飛行機から降りてiPhoneが自動的にネットワークに接続すると、早くもイミグレーションが終わったような気持ちになる。空港のWi-Fiが気持ちいいのは、飛行機を降りて通信環境が復活するからではない。Wi-Fiを通じて、自分がその土地に受け入れられるような気がするからだ。といっても、空港のWi-Fiが気持ちいいと思っている人間がどれくらいいるのかは知らないけれど。
こうした感覚があったからこそ、引っ越したばかりの部屋でぼくはひどく驚いたのだ。ルームシェアをしていた部屋にしかないはずのあのWi-Fiが、何もないこの部屋にも飛んでいるのだから。いつの間にかぼくのホームはWi-Fiに乗って、空中を漂っていた。「ホームフル」とか言って街なかの何かとホームを結びつけて屁理屈をこねるまでもなく、そもそもホームは軽やかにあちこちを飛び回っているのだろう。Wi-Fiというかたちで。
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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
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