ホームフル・ドリフティング 22
もてスリム
♯22 家にいるのに帰りたい
自宅に帰る。廊下を抜けて、リビングに入る。カバンを下ろす。コートを脱ぐ。冷蔵庫から冷たい緑茶を取り出して飲む。ソファに座って、iPhoneを触る。ふと、家に帰りたいなあと思う。
家にいるのに、家に帰りたいと思うことがよくある。おかしなことだろうか。ここが一人暮らしをしている部屋で遠く離れた実家に帰りたいと思うなら、おかしなことではないかもしれない。しかし、この気持ちは実家にいても湧き上がってくる。むしろ、実家で暮らしているときの方が家に帰りたいと思うことが多かった。
ここで「帰りたいなあ」と思う「家」は、どこか特定の場所が想定されているわけではない。実家にいるときでさえそう思うのだから帰宅先が実家でないのは明白だし、祖父母や親戚の家を思い出しているわけでもない。幼いころ住んでいた家でもないし、なんなら空想上の家でさえない。ついでにいえば家の中に家族がいてもいなくてもこの感情はやってくる。ただ、「帰りたい」という気持ちだけが強くそこにあるのだ。
家にいるのに「帰りたい」と思うようになったのがいつごろからなのか、いまでははっきりしない。しかし高校生のころにはすでにそう感じていたことを覚えているから、かれこれ十年以上はこの感情と向き合い続けていることになる。向き合い続けているといっても、ただ毎回帰りたいなあと思っているだけなので、その謎が解明されるわけでもないのだけれど。
果たしてこの状態は「ホームシック」なのだろうか。だって、すでに自分の体はほかならぬ家にあるうえに、どこかほかに帰る場所があるわけでもないのだから。一般的に「ホームシック」とは懐郷病とも呼ばれ故郷や家庭を恋しく思う気持ちを指すが、恋しく思うも何も、すぐそばにそれはある。家に帰りたいとは思うが、帰りたい家や恋しい家庭があるわけではない。
ならば、これは「帰る」ことに対する恋しさなのかもしれない。数ヶ月前や一年前、五年前の帰り道、あるいは小学校や中学校からかつて帰っていたときの帰り道、あるいは雪の日、台風の日、秋晴れの日の帰り道。これまで無数に重ねてきたあらゆる帰り道に対する郷愁が「家に帰りたい」という気持ちとして表れているのだとしたら。ホームシックとは家そのものだけでなく、家に至るまでの時空間をも対象としうるのかもしれない。それはつまり、「ホーム」が単に「家」の中だけに留まるものではないということでもある。
十七世紀に発明された概念であるノスタルジア=ホームシックは戦場の兵士たちを襲い、その憂鬱な気持ちはときに隊の中を伝染していったという。彼らは故郷までの道のりをも恋しく思っていたのだろうか?
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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
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