生きる隙間 5

 生まれて初めて、自分の車を買った。ピンク色で小回りが効く軽自動車だ。引っ越しで思ったよりお金を使ったので、出費を極力抑えたかった。まだ結婚していた時も車はあったけれど、実質上夫のもので、私のものではなかった。真っ黒で大きな車だった。その頃私は、年中暑い国で真っ青な海を一望できる大きなマンションに住んでいた。それは夫の仕事のおかげであって、私はただの主婦だった。在留ビザの職業の部分にも、House Wife(主婦)と記されていた。私は幼い頃から自分のことを立派なフェミニストだと思っていて、自分の力でしっかり稼いで生きていこうと思っていたけれど、結婚と共に仕事を辞め駐在妻となり、自由な時間をついに持てることに魅力を感じていた。恥ずかしながら、これでようやく好きなことができると思ったのも事実だった。でも実際、現地の小さなコミュニティーに属し、House Wifeという括りにはめ込まれると、個人としての存在がどんどん薄れていくようで焦りを感じた。役割に飲み込まれていく。私は主婦以外の何者でもない。夜明けに爆音で街中に鳴り響くコーランで目覚め、寝つきが悪くなり不眠症になった。そのうち眠るために飲酒量が増えた。気付いたら、朝から台所の換気扇の下で洗濯物が出来上がるのを待ちながら赤ワインを飲むようになっていた。
 私の家から最寄りの駅は随分遠くにあって、電車は1時間に一本しかないこの田舎町で車は必需品である。ほぼほぼペーパードライバーだった私。毎日恐る恐る、運転の練習をした。徐々に目的地までの距離を伸ばして、自由に動ける範囲を広げていく。道も若干覚え始め、自らできることが増えていく実感を感じるのは、気分が良かった。
 朝早く起きると、車で20分ほどのところにあるだだっ広い産地直売所に向かう。地元で採れた新鮮な野菜がずらりと並んでいて、若い葉物の緑が眩しく感じる。値段も驚くほど安い。朝早くから県中の人が集まる賑やかな場所だ。寒さで動きが鈍くなる冬の間さえもめずらしい野菜がたくさんあった。ブロッコリーのような食感のあすっこ、孔雀が羽を広げたような見た目で甘みが詰まったタアサイ、フリットにすると柔らかくとても美味しい紫カリフラワー。そして今、春が来て鮮やかで苦味のある野菜がどんどん増えてきた。天ぷらにすると見た目も美しい菜の花、味噌と和えてもジェノベーゼにしても絶品なふきのとう。旬の野菜を知り、味覚で季節を楽しむことは大人の行為だと思って憧れていた。幼い頃は苦味を楽しむことができなかった私も、今となれば大好物である。私もついに、それなりに大人になったのかもしれない

 気付かぬ間に大人になり、なかなか手に入らなくなった自由を探し求めた結果、私は離婚を選んだ。その後、大きな企業で業務委託として働き始め、正社員に決まったところで心身が悲鳴をあげ苦しくなり、田舎へ引っ越す決心をした。今は、隠居生活のような暮らしをしながら少しずつ仕事をして、貯金を切り崩して生きている。結局どう足掻こうと、私は何者でもなく、何もない町での生活に一喜一憂し、季節の味わいみたいな小さなことで幸せを感じる身の丈そのものの生活をしている。
 最近、保護犬を施設から譲り受けた。うさぎも1羽一緒に飼っている。両親と動物たちが勢揃いした写真を姉に送った。すると、その写真を見た姪っ子が、「まりちゃんは幸せだね」と言っていたよ、とメールがきた。私はがむしゃらに進んできて、理想を描きながらも遠回りして、正しいかどうかも分からない選択をしながら生きている。これからに不安を感じる時もたくさんある。でも、姪っ子は正しいかもしれない。私は今、幸せなのかもしれない。
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〈著者プロフィール〉
小嶋まり
渋谷区から山陰地方へ移住。写真、執筆、翻訳など。
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