トーチ

2018年8月27日 月曜日

『死都調布』、何が暴力か。

こんにちは。編集部の中川です。

洋の東西を問わずヤクザ映画ないしマフィア映画が好きでよく観てきました。よく観てきたといっても本当に好きな方々からすれば観てきた数も全然少ないですし、分析的・体系的に見る知性も持ち合わせていないため、ただ「うひゃー」とか「こえー」とか「かっこいー」とか思いながら楽しんできました。北野武監督の『ソナチネ』を一番たくさん観ました。私は10年ほど前、それまで勤めていた出版社を辞めしばらく自宅でぼんやりしていたのですが、その時期に毎日繰り返し観ました。映画の音声を丸ごとMP3にし、いつでもどこでもiPodでソナチネを「聞く」ということをしていました。もし今後不幸にも何かモノマネ芸を強要される状況に陥ってしまったら、『ソナチネ』の、例の、麻雀屋の店主をクレーンで海に沈めるシーンのビートたけしと大杉漣の会話を再現しよう……そういう気構えは当時から現在に至るまで常に整えているつもりです。

私がこの映画に感じる魅力のひとつに銃の撃ち方があります。棒立ちで、ただ撃つ。床をゴロゴロ転げ回り、飛び、跳ね、宙返りし、歯を食いしばり、あるいは大声を上げ、派手な銃撃戦を繰り広げる、そういう外国人の姿をかっこいいなあと思う一方、どこか他人事というか、我が事としてのリアリティを感じることができずに今に至っているのはたぶん私が日本人だからだと思います。私は日本に税金を納め、日本の法律を守り、日本語を話しています。最近のニュースなどを見ていると、この国の立法・行政・司法・マスコミ全部やんなっちゃうなあと思うことがありますが、パスポートにもそのように記載されていますので、やっぱり日本人です。もし万が一、私が映画の中で銃を撃つことになったら、『ソナチネ』の「あの撃ち方」をまず考えると思います。無言で、無表情で、死にたくないとも殺したいともさほど強く思っていなそうなあの感じ。最近太ってきていることもあり、それ以外のやり方はどうも想像できません。大半の邦人と同じく銃など触ったこともないですし。

そんな感じですから、2014年のトーチ創刊以来ずっと私は日本のヤクザあるいはマフィア的な人々を題材にした、新しくてかっこいい作品が読みたいと思っていて、企画会議などでもちょいちょい言ってきたのですが、じゃあ具体的にどうするのという話になると、どのような作品に私が新しさとかっこよさを感じようとしているのかよくわからない。高円寺のガード下の定食屋に私はよく行きます。店には大手出版社のメジャー青年誌があるので読みます。いわゆる暴力描写を作品の魅力の中心に据えるものも少なくなく、「新しくてかっこいい暴力表現」のヒントがあるのではないか、期待を込めて読みます。しかし、どうもおかしい。切る、撃つ、刺す、殴る、折る、割る、焼く、えぐる、犯す、罵倒する……あらゆる暴力が描かれ、それらは洗練されたものに見えるのですが、どれも一昔前によく見かけた、頭のイカれた人物がヒャッハーみたいな感じで躍り出てきて「暴力はいいぜえ、暴力はよお」というあの感じとそんなに違わないように見えて、なんだかちょっと照れくさい気持ちになったりもします。今、漫画の中にこのような人が出てきても、私は恐ろしさを感じません。そんなにイカれている感じを受けないのです。道を歩いてて遭遇したらすごくイヤですが、漫画である限り大丈夫。恐くない。読んでいる私の日常は1ミリも脅かされない。どんなに残虐な場面が描かれていようと、私は心の底では他人事として安心して読んでいるのです。震災と戦争の方が本当にありそうで怖い。

私はどちらかというと性善説を採っていると思います。どれだけ悪逆非道の限りを尽くしている人物でも、人にそれとわかる形で暴力を表現している限り、その人には更生の余地が残されているはずだ、という見立てをまずしてしまいます。漫画の登場人物は誰かに見られる宿命ですから、必ず読み手にそれとわかる形のパフォーマンスをします。強要されていると言ってもいい。役者には舞台があり、楽屋があり、稽古場があり、そして自宅がある。今の青年誌で描かれる乱暴者たちのパフォーマンスを見る限り、彼らが舞台だけでなく稽古場でも自宅でもイカれているようにはどうしても思えないのです。彼らは漫画の登場人物として非常にキャッチーな見た目をし、そして読み手が望むキャッチーな振る舞いをします。どんなに醜悪な容姿で描かれていたとしても、その容姿をもって読み手の感興を促すことを目的に生み出されたものである限り、それはキャッチーだということです。そう考えると、過激な暴力に真摯に取り組んでいる彼らがいよいよ普通というかむしろ健気にさえ思えてきて……そういう雑念が入り、彼らの暴力を信じ切ることができない。これは作品が悪いのではなく、たぶん私の変な読み方が悪いです。

それにしても『死都調布』は、少なくとも私が定食屋で見かける漫画とは全く違う原理で描かれているように感じます。『死都調布』には過激な暴力描写はほとんどありません。皆無といっていいかもしれない。作中では人の首や腕や指が度々もげますが、ソフビ人形の四肢が何かの拍子で取れてしまったみたいにポロっと取れますし、焼死する人も「熱いいいい」とか言って1コマで終わる。ある男がまったく根拠もないまま妻に不倫の疑いをかけ工具で頭を殴る。殴られた妻はどうやら頭蓋骨が陥没したらしく、けっこうな凹み方をしている。これもわりと強めの暴力ですから、漫画としては夫が犯行に至った経緯を詳細に説明し、彼の気持ちの変遷を事細かに説明してもいいはずなのに、夫は2〜3台詞を言っただけでもう殴ってる。殴られた妻も「いった〜い」とか言っている。逃げ惑うとか半狂乱になるとかやり返すとかあるだろうに。夫婦ともに不真面目すぎる。これまで数え切れないほど多くの漫画家が長い時間をかけて、よりおぞましく、残酷で、劇的で、ショッキングな暴力描写を試行錯誤してきたことを考えると、この描き方は不真面目すぎやしないか。彼らのみならず、出てくる全員が暴力に対して不真面目すぎる。

この、死都調布の住人たちの「暴力に対する不真面目さ」が私は一番怖いです。彼らが暴力を当たり前のものと考え、というか暴力について全く無自覚で、誰も暴力と真面目に向き合っていないことにすごいリアリティを感じます。そもそも彼らは事の善悪をジャッジする尺度を最初から持ち合わせていないか、最初から何者かに奪われているように見えます。暴力が人間にとってまったくコントロールできないものである、という状況の大変な暴力性。人間への忖度が一切ない風景と動物たち。

【暴力】
1 乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「暴力を振るう」
2 合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。
(goo国語辞書)

2が気になります。『死都調布』の大きな魅力のひとつは「漫画としての」合法性と正当性の圧倒的な欠落だと今思いました。つまり、やはり、暴力です。『死都調布』を成立させている大きな原動力のひとつに、漫画として非合法であり不当であろうとする作者の強い意志があるように思います。合法的で正当な漫画を描くなら因果律と写実を頑張ればひとまずそれらしくはなると私は肯定的に考えているのですが、斎藤潤一郎氏は全く油断しない。漫画として非合法で不当な作品はすでに漫画とは別の何かである可能性が高いですが、そのことについて何か言うだけの知識がないのでよします。

CHAPTER.5の冒頭に「これは物語ではない、ドキュメントでもない、あなたの人生の一部である」と書いてあります。自分にとって本当にリアルなものを見たり読んだりすると私は笑ってしまうのですが、『死都調布』は、内省・状況説明・心理描写が削ぎ落とされた抑制の利いた構成に引き込まれ、緊張感を持って読み進めるうちにいきなり爆発的な笑いがこみ上げてきて自分でびっくりする、という経験を繰り返してきました。その感じは連載が進むごとに加速していきました。

斎藤潤一郎氏を知ったのは、2015年のコミティアか文学フリマか失念してしまいましたが、川勝徳重氏が編集した「架空 No.14」でした。『イン・ザ・クソスープ』が掲載されていました。村上龍の『イン ザ・ミソスープ』との距離感を逆に測りかねてしまうぶっきらぼうなタイトルも含め、何かとても悪い原理で描かれているように思いました。一読して「これはヒドい」と思い、川勝氏にそう言うと「彼は天才です」という答えが返ってきたのをよく覚えています。ありとあらゆる合法性と正当性を拒絶する、つまり既存の価値観に自覚的に戦いを挑み続けるというのは、その逆よりも強靭な精神を要します。強靭な精神。大げさに聞こえるかもしれませんが、本当にそう思います。本人と初めて会った時、高円寺駅の改札前に佇む、氏の姿に、なにかしら、ぎゅっ、とか、ぐっ、という印象がありました。「練り上げられている」あるいは「鍛え上げられている」そう思いました。

この感じは装丁としても表現されています。装丁は意志強ナツ子氏の『魔術師A』も手がけた鈴木哲生氏です。『死都調布』をどんな本にしていくか、著者との打ち合わせと試行錯誤を繰り返す中で、彼は「デザイナーが存在していないかのようにデザインします」と恐ろしいことを言い、実際にそうなりました。一冊の本として、立体物として著作の密度と強度が表現されているのは間違いなく鈴木氏の仕事の成果です。「デザイナーが存在していないかのようにデザインします」とはつまり「この作品に関しては漫画単行本としての合法性と正当性を拒絶します」という装丁家としての宣言でした。著者にせよ装丁家にせよ「〇〇とはこういうもので、こうあるべきだ」という価値観を自覚し、疑い、否定し、何か良いものを作るべく知性と霊感を総動員する。私は芸術家ではないので怪しいですが、これはやっぱり芸術作品が生まれるまでのプロセスとよく似ているのではないでしょうか。どうでしょうか。

https://to-ti.in/product/shit_chofu