トーチ

2024年11月19日 火曜日

『痩我慢の説』編集後記

10年近く前、川勝さんを含む何人かで集まった時、こんな話題になった。

「無人の荒野に木が一本立っていた。ある夜、その木に雷が落ちた。それを誰も知らないし、記録もない。その跡を見に行く者も未来永劫現れなかった。雷は本当に落ちたと言えるのか」

ある人が「誰も知らないってことは情報として成立してないわけだから、雷が落ちたとは誰にも言い切れない」と言った。それに対し川勝さんは「そんなはずないですよ! 誰も知らないからってどうして無かったことにできるんですか。落ちましたよ、雷は!」と即座に応じた。当時まだ二十代前半だった彼の真剣な横顔を私は鮮明に覚えている。

『痩我慢の説』、私は大傑作だと思う。この作品のすごさを理解するには川勝さんがこの作品を通じて何を、なぜ、どういう形で「リバイバル」したのか、その一つ一つをつぶさに見ていく必要がある。例えば、セリフの一部を太ゴシックにしているのはなぜなのか。これは大江健三郎を参照したものだが、ではなぜ大江なのか。登場人物たちの髪型、服装はなぜこうなのか。犬のベティの造形は? 下宿の内装、貸本屋の外観、戦中・戦前漫画、アメリカの歌、モーツァルト、豊富というにはあまりに豊富な引用の数々。そもそもなぜ藤枝静男なのか……全てが考え抜かれたものだ。これは若いのに旧いものを良く知っているとか、時代考証が行き届いているとか、そういう話ではもはやなく、本作の一コマ一コマが川勝さんの豊かな知性と鋭敏な感性、創作への情熱を物語っており、それらの大きさ・深さ・広さが、いよいよ測り知れないという話だ。

『電話・睡眠・音楽』『アントロポセンの犬泥棒』そして本作と、川勝さんの一連の作品は、作品それ自体にちょっと怖いくらいの批評性があって、私は担当編集者としてこの人の真価をちゃんと言語化し広く発信せねばといつも急き立てられるような気持ちできたが、それには音楽、絵画、映画、文学、人文科学、あらゆる面において私の知識は乏しすぎる。これはアカデミア、新聞、雑誌、評論の方々に託します。本当に、よろしくおねがいします。

私はここでは自分が本作の何に感動したかと制作期間中のいくつかのことを素朴に綴る。

私は3話・7話・8話で泣いた。「泣いた」いうと安っぽいが、しかし事実だから仕方ない。泣けて泣けて仕方なかった。私がなぜ泣いたのかははっきりしている。それは本作が「わかりあえなさ」をちゃんと描いていることによる。中年男と若い娘、男と女、女と女、男と男、犬と人……それまで分かり合えなかった者同士が、ある出来事をきっかけに心が通じ合って握手……という場面が本作には一つもない。今、あらためて全編点検してみたがやっぱりない。私が感動するのは、安易な感傷、エモみ、わかりみといった演出上の誘惑を振り切ってリアリズムに踏みとどまる作者の姿勢の良さが一つ。もう一つは「わかりあえなさ」を「誰ともわかり合えない特別な私…」みたいな自己陶酔や、「しょせん人と人とは…」みたいなニヒリズムの磁場から解放し、人が、何かこう、明るさとか「元気」の方へ跳躍するための確かな足場になりうることを示してくれたこと。

不愉快で、困難で、ままならない現実を引き受けつつ、老若男女、さらに犬までもが生き生きと自立した生に向かう姿をここまでまっすぐに描いた作品が他にあるだろうか。人それぞれ、そりゃあ色々あるけどサ、元気出して行こうじゃないの、という古典的というにはあまりに古典的なメッセージが、この暗澹たる現代でこれほど胸に響くものになり得るとは。

冒頭の雷の話にも通じるが、川勝さんはおそらく、他の人にはわからないこと、誰にも知られていないもの、忘れ去られたものも「あったのなら、あった」と考えている。昨年7月、本作最終話のネームを受け取った時、宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』の話になった。川勝さんはこの映画のエピローグと自作『野豚物語』のエピローグがよく似ていると言っていて、私は少し考えて、あ、と思った。いずれの結末も「〝向こう側〟であったことは、確かにあった」を描いている。『君たちはどう生きるか』はその記憶(記録)を持ち帰ってきた石に託し、『野豚物語』はタワシの手触りに託している。

『痩我慢の説』は全ての登場人物に「他の人にはわからない。けど……」がある。犬のベティにだってある。前作『野豚物語』は「他の人にはわからない。けど……」を宝箱(タワシ)に大事に仕舞うような結末だったのに対し、本作では苦笑いのような、照れ笑いのような、誰にもわかる微笑みとして、つつみ隠さずみんなに〝開いて〟幕としている。泣いて笑って元気が出る、本当にいい作品である。

(編集部・中川)

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