トーチ

2019年6月16日 日曜日

何となくうまくいかない新人漫画家にやってみてほしい5つの裏技

トーチ漫画賞の締め切りまで1ヶ月半となりました。私たち編集部員は応募作品の下読みをします。沢山の応募がある中から最終選考に残す作品を選ぶ作業です。事実上の一次選考です。全ての応募作品を編集部全員で読み、話し合った上で選考委員の方々に渡す作品が決まります。関谷、山田、信藤、私でやります。下読みに臨む姿勢は編集部員によって違いますが、私は今回、良い作品を選ぶのではなく、良くない作品を落とす姿勢で臨もうと思っています。

私にとってこの作業は苦しいものになると思います。膨大な数の作品を読むのが苦しいのではなく、初めてやることだから苦しい。この5年間でかなりの数の持ち込み作品を読んできましたが、経験を積めば積むほどすべての作品がおもしろいということがわかってきてしまいました。今まで影も形もなかったものが今ここにあらしめられていることがいきなり不思議でおもしろい。途中で読むのをやめた作品は一つもありません。全て最初から最後まで読めたということは、読み通させるだけの何かが全ての作品に絶対にあったということです。

100の中から10を得ようとすることと、100の中から90を退けようとすることは同じことのようでやっぱり違います。前者しかやったことがありません。どういう作品を退けるかについての自分なりの尺度がほしくなったので作るのが本稿の目的です。それには自分がこれまでどういう作品を選ばないできたかを確認する作業が必要だと考えました。

これから述べるのはあくまでも私の個人的な経験に基づいた私なりの見解です。もし全く見当はずれだったとしても、先に述べたように下読みは4人でしますから大丈夫です。各編集部員がそれぞれの意見に対し賛成なら賛成、反対なら反対と気兼ねなく表明しあい、話し合って結論を出す体制がトーチ編集部には整っています。これは私たち編集部の美点の一つだと私は密かに自慢に思っています。

それにしても私は人から嫌われたくない。自分の考えを公にすることは、嘘ばっかつきやがってとか、へえそんな風に考えてるんだ、きも、浅、ださ。とか思われる危険を伴います。しかし応募者だって膨大な労力をかけた作品の評価を私たちに委ね真剣な気持ちで応募してくるわけですから、私も手間暇をかけて自分の考えをつまびらかにするのがフェアだろうと思うので正直に書こうと思います。

私は作品の良し悪しを左右するのは作者の技術というより情理のあり様だと考えています。感じ方と考え方です。自分の情理がどういうあり様をしているかを知り、適切にチューニングすることが大切だと思います。

手技をどれだけ磨いても、色んな意味でなんかこう、よくわからないけど上手くデビューできないという人を本当に沢山見てきましたし、逆に、まったく箸にも棒にもかからなかった人がわずか半年の間に大化けし(悔しいことに他社で)大ヒットしたケースも見てきました。こうした経験から、なんかこうよくわからないけど上手くいかない人たちのつまづきは技術的な話ではないと思うようになりました。

私がこれまで選んでこなかったものに共通しているものの一つに、作者の情理のチューニングのズレがあるように思うのです。なかなかデビューできずに悩んでいる人は、まずは下記に挙げる5つの中に思い当たるフシがないか点検してみてください。もしあった場合は技術を磨くよりもこれらを正すことで手っ取り早く劇的な変化が望めます。

(1)テーマと題材について

「猫をテーマに描きました」とか「女子高生をテーマに描きました」という言い方をする人が沢山いますが、その場合、猫や女子高生はテーマでなく題材です。テーマとは創作の基調となる考えのことです。どんなテーマのもとでそれらを題材としたか、あるいは、それらを題材とした結果どんなテーマが浮かび上がってきたかが重要です。題材はテーマに形を与えるための道具ないし材料です。テーマは題材が決まる前から言語化されている場合と、題材をあれこれ組み立てていくうちに徐々に形を成していき、描き上げた後で初めて判明する場合があります。

低俗なものでも高尚なものでもいいです。なんでもいいのです。複数あってもいいし、本当は無くてもいいくらいですが、無くてもあります。テーマはありません、という作品が優れたものである場合、テーマをあえて空洞化することに成功したということになります。テーマというものが題材とは別ものであるという意識を持つだけで作品の強度は格段に上がると私は思います。

気をつけたいのは社会的弱者を題材にする場合です。持ち込み原稿の中には病気や差別に苦しんでいる人(作者自身である場合も含む)を扱った作品も多いですが、その大半があまり面白くないのはテーマが欠けているからです。社会的弱者を題材にしさえすれば何がしかのことを描いたかのように作者自身が錯覚しがちで、テーマの無さに気づきづらくなるからだと思います。

社会的弱者を題材にすることは彼らを自作に利用することですから、最初から外道に片足を突っ込んでいることを忘れてはなりません。その上で正道に踏みとどまろうとするか外道を貫こうとするかは問題ではありません。問題は徹底的にやれるかどうかです。中途半端がいちばん良くない。中途半端で放り出すから安い偽善やしょぼい露悪で終わるのです。行き着くところまで行かなければならない。危険な旅路ですが、この時、テーマがあなたの針路を示す北極星となります。

(2)芸術作品と娯楽作品の線引きについて

ある作品を芸術作品か娯楽作品かで区別することに私はあまり意味を感じません。商業漫画は商業芸術です。つまり芸術です。漫画を描こうとする人は芸術から逃れることはできません。漫画に限らず何か良いものを作って人前に差し出そうという時点で芸術が発動している。娯楽作品も例外ではありません。

自分の漫画について「アートに寄せてみました」とか「エンタメに徹しました」という注釈を作中や作外で述べようとする人が時々いますが、きっと彼ら彼女らの頭の中では芸術作品と娯楽作品は対立するもので、あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たずという図式が焦げ付いているんだと思います。または、アートは売れない→エンターテインメントは売れる→出版社は売れる作品を求めてる→出版社はエンタメ作品を求めている、といった雑すぎる業界観があるのかもしれません。そんなシンプルな話だったら作家も出版社もこんなに苦労はしていません。読者と市場をナメてはいけません。

芸術と娯楽は太古の昔から手に手を取り合ってダンスをしているのです。私たちが生まれる遥か前に始まり、私たちが滅んだ後も続く永遠のダンスです。両者は仲睦まじすぎてほとんど渾然一体となっている。人間ごときが彼らの間に無理やり割って入り、芸術に、あるいは娯楽に「あなたのパートナーは私です」と言うのは野暮ってもんでしょう。彼らのダンスに官能を覚えたなら、それと同じくらい、たまんない!と思える作品を描くことです。そしてそれを突き詰める過程でつまずくことです。自分なりのたまんなさを追求してきたけれど、そもそも自分は自分が思うたまんなさに本当にたまんなさを感じているだろうか……と、ふと立ち止まったまさにその場所があなたのアトリエになります。無理に答えを出そうとすると、せっかく得たその場所からすぐに締め出されてしまいます。もうダメだと思うまでしばらくじっとしていてください。そして本当にもうダメだと思ったらそっと後ろを振り返ってみてください。それまであなたに見向きもせずに踊り狂っていた芸術と娯楽が、いつの間にかあなたに微笑みかけているはずです。そしてこう語りかけてきます。Shall we dance?

(3)売れてる作家や作品について

なぜあんな作家が売れているかわからない、あんな作品が評価される世の中は間違っている、という話をしてくる、またそういったことを作品として描いてくる人が時々います。私は、というか編集者は、というかあなたの作品を読むほとんどすべての人は、あなたが売れている作家のことをどう思っているかにあまり興味がありません。売れている作家のことをそんなふうに言うあなたがどんな漫画を描くかに興味があるのです。

ただ、鋭い批判精神や反骨心は作家にとって財産です。嫉妬や怒り、不正に満ちた世の中への苛立ちが創作のエネルギーになることもありますし、同志が集まって嫌いな作家や作品について語り合うことは、場合によっては好きな作家や作品について熱く語り合うこと以上に有意義です。誰かに向けた批判の矛先というのは「じゃあお前はどうなんだ」という形で必ず自分自身に返ってきますから、それに耐えられる限りにおいて自作を相対化し鍛え上げるのに大いに役立つものです。

私が心配なのは他の作家に対する激烈な批判を初対面の私に一方的に展開してくる人です。私に対してそうだということは、私以外の人にもそうである可能性が高い。誰彼かまわずということです。言葉が荒ければ荒いほど、私はその人から強い不安を見てとります。不満ではなく不安をです。彼らは売れている作家を批判しているのではなく、批判的な言葉を煙幕にして自信のなさを隠そうとしているように見えるのです。彼らは批判されることを誰よりも強く恐れている。恐れが批判を生み、批判が恐れを生み……悪循環から抜け出せなくなっているのだと思います。批判の対象は実は誰でもよくて、これはもはや単なる攻撃であり症状に近いものです。

批判されるのが怖いなら持ち込みなんかしなければいい、と思ったこともありますが、これは乱暴な考えでした。漫画を描いて人前に差し出すことはコミュニケーション以外の何物でもありません。作品を他者に読ませようとする全ての作者に、本人が自覚しているか否かに関わらず外部とつながりたい気持ちが必ずあります。悪循環を断ち切るためには、恐怖心を押さえ込んだり激烈な批判をやめることではなく、まずは自分が人とつながろうとした事実を認め肯定することが必要だと思います。

「私は自主的に漫画を描き上げた、誰かに読んでもらいたいと思った、編集部に電話をしてアポイントを取った、当日の朝起きて、原稿をカバンに入れて、電車に乗って、出版社まで行き、編集者に見せた。」

繰り返し声に出すといいと思います。起きたのが朝だったか昼だったか、電車だったかタクシーだったか、出版社だったかコミティアだったかなどの細かい部分は各自調整してください。

もう一度書きます。

「私は自主的に漫画を描き上げた、誰かに読んでもらいたいと思った、編集部に電話をしてアポイントを取った、当日の朝起きて、原稿をカバンに入れて、電車に乗って、出版社まで行き、編集者に見せた。」

もう一度。

「私は自主的に漫画を描き上げた、誰かに読んでもらいたいと思った、編集部に電話をしてアポイントを取った、当日の朝起きて、原稿をカバンに入れて、電車に乗って、出版社まで行き、編集者に見せた。」

(4)悪ノリについて

大きな粘土細工を1体、漫画ですと言って持ってきた人がいました。原稿用紙って小さいじゃないですか、形も四角で決まっちゃってるし、こんな窮屈なことってあります? 漫画の新しい地平を切り拓くためにも、原稿用紙とかペンとか、そういうお仕着せのシステムから自由になるべきだと思うんすよ。

私はこの漫画をためつすがめつ面白く読みましたが、これはやっぱり悪手だと思います。この漫画が良くないのは粘土だからではなく、作者の動機が漫画を壊すことと漫画から逃げることにあるからです。漫画を描こうとする人が漫画を壊し漫画から逃げたところで、たぶんどんな自由も得られないでしょう。無目的な破壊と逃亡を動機に何かをすること、これを悪ノリと言います。

当たり前に正しいとされている既存の価値観を壊すことがすなわち悪ノリなのではありません。既存の価値を壊したいという衝動、あるいは壊さなければならないという使命感、これも作家にとって大きな財産です。大事なのは良い壊し方をすることです。良い壊し方とは、既存の価値観の正しくなさを暴くのではなく、別の正しさが屹立しうることを作品で証明することです。

悪ノリの予防と、良い壊しをするためには、自由に対するイメージを「〜からの自由」ではなく「〜への自由」に切り替えるのがいいと思います。漫画からの自由ではなく、漫画への自由。原稿用紙からの自由ではなく、原稿用紙への自由。既存の価値からの自由ではなく、新しい価値への自由。

(5)どこを直せばいいですか?という質問について

絵はいいんだけどストーリーがいまいち……ストーリーはいいんだけど絵が……という作品は、悩ましいですが、今回の下読みでは私は支持しないことにします。「このストーリーのままもっといい絵が入れば掲載できると言われました。どこをどう直せばいいですか」あるいはその逆の相談をよく受けますが、いずれの場合も、絵もストーリーも見直す必要があると私は思います。絵とストーリーを見直すということは、構成、台詞も見直すことになりますから、要するに全部やり直しです。

絵・ストーリー・構成・台詞は不可分だと私は考えます。描かれた絵に導かれてストーリーが前進することもあれば、ストーリーに背中を押されて絵が湧き出てくることもある。あるいはふと書いた台詞が思いもしなかったストーリーを呼び込み、それを構成した結果すごくいい絵が描けた、ということもあるでしょう。問題は何か一つの技術が至らないことではなく、これらをバラバラに分解して別々にこなそうとする思考のクセにあると思います。デッサン力も身につけたし脚本術も頭に叩き込んだ、なのに……という人ほどこのクセを直すのがいいと思います。

これは落語か近代日本文学に親しむことで改善されると思います。これらに親しむことはすなわち日本語に親しむことです。なぜ改善されるのかはすごく長くなるのでまたにしますが、ただ、今活躍している漫画家の中に文章が下手な人は一人もいないことは伝えておきたいと思います。本人たちは漫画家ですから、文章をほめられても「はあ」くらいの反応ですが、全員(全員です)エッセイにしろツイッターにしろ日記にしろメールにしろ暑中見舞いにしろ評論にしろ、自分の気持ちや言いたいことが過不足なく伝わる、独創的で率直な文章を書きます。良い漫画を描けることと日本語と仲良しであることは無関係ではありません。

なので近代日本文学と落語をおすすめします。色々な作品にあたるよりも好きな作家や落語家を一人選んで繰り返し楽しむことを2〜3年続けてみてください。遠回りに感じるかもしれませんが実際はその方が近道です。今のままでは20〜30年かけてもどうにもならないかもしれないものが2〜3年で何とかなるとしたら、やらない手はないとは思いませんか?

それにしても我々はなぜ漫画を「読める」のでしょうか。漫画は紙に染み込んだインクの集合にすぎないのだから、そこに描かれていることの意味がわかるほうがおかしい。育った家庭環境も趣味も嗜好も学歴も経済状況も何もかも違う全く見ず知らずの人間がぶちまけたインクの染みから出来事を読み取れというのがそもそも無理な話ではないか。まして登場人物の心の機微や感情の揺れ動き、街のざわめき、自然の偉大さなどなど……そんなことまで読み取らせようとするほうがどうかしている。しかし、できるのです。間違いなくできる。事実、けっこう皆できている。

80代より上の世代の方々は漫画を「見る」と言うことも多かったようですが、現代はやはり「読む」ものだとするのが自然です。漫画が読まれるものなのは台詞が言葉で書かれているからではなく、時制にもとづき、描かれているものの意味を前から順に理解していくものだからです。この意味で文章と漫画はよく似ています。読めない漫画というのは、その作品の中で何が起きているか理解できない漫画のことで、描かれていることの最低限の意味が取れない漫画です。しかし、そういう時も「このコマとこのコマの間で何が起きたんですか?」「この人物はこういう表情をしていますがどういう気持ちなんですか?」「なぜこうなったのですか?」など、わからないことを日本語で尋ねると、作者からは「これこれこういうことです」とやはり日本語で説明があり、私は「ああ、なるほど」と日本語で納得するのです。その人の漫画では理解できなかったものが、その人の日本語でなら理解できたのです。

作者と読者の間には先に述べたようなほとんど絶望的な断絶がありますが、漫画では理解されなかったものが、日本語でなら理解されうるということは喜ばしいことです。日本語は、漫画がなんかうまくいかない人が描けるようになるための、ほとんど唯一の、しかしとても強力なよすがです。

(編集部・中川)