トーチ

2021年8月27日 金曜日

追悼 みなもと太郎先生(担当編集者より)

みなもと太郎先生が逝去された。

8月7日午前2時。入院中の病院で亡くなったと奥様からご連絡があった。昨年来、先生は肺がんの療養のため入退院を繰り返す生活を送られていたが、『風雲児たち』の連載再開を目指して前向きに病と向き合われていた。病状は深刻なものだったけれどお会いする度にお元気で、本当にこのまま全快してしまうのではないかと私は思っていた。亡くなられた当日も、朝には売店で新聞を買い、夕方にはコンビニで夜食を買い、夜にはご家族とLINEで楽しくやりとりされるなど本当に普段どおり過ごされ、深夜に息を引き取ることになるとは、奥様にも思いもよらなかったそうだ。「本人も、いつも通り眠ったものだと思ったのではないでしょうか」とおっしゃっていた。

翌8日、先生にお会いしてきた。ながやす巧先生が描いた似顔絵が仏壇にあった。どうにも言葉が出ず、まともなお悔やみも言えぬまま帰ってきてしまった気がする。どうぞ安らかに、という気持ちにいまだになれないのは、先生が私たちに遺してくださったものがあまりに深く、広すぎて、どう悲しめばいいかはかりかねているからだ。

『風雲児たち』は怪物のような作品である。1979年に連載が始まってから40年以上、世代を超えて愛される大ヒット作だ。弊社から「ワイド版」全20巻とその続編である「幕末編」1〜34巻、合計54冊が刊行されている。いずれも三谷幸喜脚本で、2018年にNHK正月時代劇『風雲児たち 蘭学革命篇』が放映、2019年には歌舞伎座で『風雲児たち 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと)』が上演された。半期ごとに複数冊の、場合によっては複数回の重版を行う作品を私は『風雲児たち』の他に知らない。先生はよく「え〜、でも世の中には何千万部、何億部なんて作品だってあるわけでしょう。私の作品はこんなに長く続けてるのにまだ…ねえ…」とおっしゃっていて、これがどうも謙遜ではなく本気でいじけているようだったので、そんなことはありません、すごいことです、と私は何度となく力説してきた。

「世代を超えて〜」というのは同作においては単なるキャッチコピーではなく、事実である。現実に起きていることだ。編集部に届くファンレターの内容が他の作品と様子が違う。「大好きです、応援しています」といったメッセージの先に、必ずと言っていいほど同作が文字通り世代を超えて行く様が綴られるのである。「中学生になった娘に『風雲児たち』を勧めたらすっかりのめりこみまして……」「私が受け持つ社会科の授業で漫画を使わせてもらったところ、生徒たちの反応が通常の授業の時とはまるで違い……」といった具合に。同様のお手紙を私はいったい何通先生に転送しただろう。

先生が療養生活に入られてからもファンの声が途切れることはなかった。先生の入院先の医師の中に同作の大ファンの方がいらしたそうで、お子さんが『風雲児たち』にハマり成績が飛躍的に向上、みごと難関校に合格したという話を一時退院中の先生からうかがった。私は心が汚れているので、こういう話を聞くと「いやいや、予備校のパンフレットじゃないんだから」と言いたくなるのだが『風雲児たち』に関してはさもありなんと思う。先生が見せてくださったメールには「医師の立場でこのようなことを申し上げるのもはばかられますが、みなもと先生だと知ってどうしても一言お礼を申し上げないわけにはいかず……」という前置きとともに、上記のことが綴られていた。さらに、先生が最後に入院されていた病院の同室の患者さんの中にやはり年季の入ったファンの方がいらして、先生と意気投合。その患者さんが退院されるまでお二人で大いに語り合っていらしたという話を奥様から伺った。

先生が行く先々で生身の、しかも熱烈なファンと遭遇する確率の高さは異常である。これは先生の類まれな強運からくるものではなく、熱心なファンがいたるところに実在するからだと考える方が科学的だろう。たしか荒俣宏先生がみなもと先生へのインタビューの中で「ファンダム」という言葉を使われていたが、担当編集の私から見ても『風雲児たち』のファンダムの広大さと堅牢さは驚くべきものがあった。事実上の公式サイト「風雲児たち長屋」は熱心なファンの方が運営している。先生もこのサイトを大切にされていて、公認というより、もはや先生ご自身が長屋の一住人としてファンの方々と情報交換されていた。よく編集者は作家の伴走者だと言われるが、40年間、先生の側を片時も離れずにいたのは編集者ではなくファンの方々だ。

同作の売上とファンダムのありようが怪物的であったのと同じく、その作法も法外なものがあった。岡田斗司夫先生のYouTubeチャンネルで、みなもと先生ご自身がおっしゃっているように、先生は「ネームをやらな」かった。漫画は[ネーム→下描き→ペン入れ→仕上げ]の順で完成する。ネームというのは最初にコマ割りや台詞を決める、漫画にとっての設計図のようなものだ。漫画というのは手間のかかるものだから、特に連載作品の場合、締め切り間際になってから編集者が漫画家に大幅なやり直しを強要したり、逆に漫画家が編集者の反対を押し切って大改造を強行したりしてモメると原稿が間に合わない。ネームはこうした事態を未然に防ぐ計画書の役割も果たす。巨匠の威光により編集者のネームチェックが省略されるケースもあるが、私の知る限りそれは編集者ではなく作者自身がネームをチェックしOKを出しているということで、ネームは必ず「やられ」ている。みなもと先生はそもそもネームを「やらない」。

『風雲児たち』は整理整頓された教科書的な年表から「落ちこぼれた」ものの中に豊潤なエンターテインメントと人間本来の姿が隠されていることを証明した作品である。誰もが知る偉人の誰も知らないドラマと、誰も知らない人々の普遍的なドラマに光を当て、高尚で立派な感じのする人たちの独占物になりがちな「歴史」を私たち大衆の側に奪い返す試みであったようにも見える。歴史漫画というのは、もしその作者が権威や権力、定説との距離を見誤れば、あっという間にいわゆる「お勉強漫画」になってしまう。先生は「私は『風雲児たち』で歴史のパロディをやっているんです」と明言されていたし、ドラマの演出を手がけた吉川邦夫さんとの対談の中で「今の時代に一つの長編ギャグ作品をこれだけ長いこと続けているのはどうも私だけみたいなんです」と半分自慢げに、半分寂しそうにおっしゃっていた。みなもと太郎は生涯を通してパロディ漫画家であり、ギャグ漫画家であった。『風雲児たち』をこれほどの感動巨編たらしめたのは、間違いなく作者のパロディ精神と笑いであり、不服従はもはや宿命だ。先に述べたように、ネームというのは編集者あるいは自分自身に何らかの「許可」を求めるものであり、これから描かれつつある作品に対し「計画」を自らに強要するものである。先生が「私はネームをやらないので」とおっしゃる時、「漫画は誰かからの許可なしに描いてはならないものだと決めつけられるいわれはない」「漫画は事前の計画に沿って描かれなければならないという法はない」という声を私は同時に聞いていた。つまり先生が商業作品である同作のネームをやらないことは、効率と合理性の呪縛から逃れられない商業作品の制作工程に対するパロディであったとも考えられる。いや、しかし一方で先生は、まさに効率と合理化の象徴ともいえるコピー機を仕事場に導入した最初の漫画家だということを自慢されていたのであり、そう考えると、先生のパロディ作家としての眼差しは、効率と合理性云々ということよりも、常に漫画の描き方の定石そのものに向けられてきたとするのが自然かもしれない。

先生はよく「話があっちゃこっちゃ横道に逸れて収拾がつかなくなるのが私の悪い癖なんだ」と笑っていらした。1947年、京都のお生まれ。落ち着きのない子どもだったという。学校を出てから京都の呉服商に就職し意匠の仕事をされていたが、先生いわく「3ヶ月で気が狂った」そうだ。みなもと先生に前後して谷口ジローも同じ呉服商で働いていたことがあるらしく、『冬の動物園』に出てくる織物問屋はここがモデルではないかと先生はおっしゃっていた。お二人の仕事内容が具体的にどういうものだったかはわからないが、みなもと太郎が3ヶ月で気が狂い、谷口ジローが1年以上続けたということは、何かとても根気の要る仕事だったに違いない。みなもと先生がネームをやらないのは、そもそも先生が、用意された予定をこなし正しい手順を踏んでいく作業に向かない性格であることも理由の一つだろう。

当然、その作品においても同じことが起こるのであり、『風雲児たち』の収拾のつかなさについては岩崎書店のインタビューで先生ご自身が語っている。新撰組はいつになったら登場するのか、先生がご存命の間に明治維新にたどり着けるのか、この作品は本当に完結するのか、あれこれ想像するのも読者の楽しみの一つであったけれど、『風雲児たち』がついに未完に終わってしまったことは無念極まりなく……と書いたところで、私はちょっと待てよと思った。今、思った。先生の短編漫画や文章を読んだことのある方ならご存知だと思うが、いずれも決められた紙幅で過不足なく、完璧にまとめられている。先生は収拾をつけられなかったのではなく、無理にでも収拾をつけようとすればつけられるものを、あえてそうしなかったのではないか、という気がしてきた。先生はたしか「『風雲児たち』はこのやり方じゃなかったら、これだけ長いこと描き続けることはできなかったと思う。絶対にどこかで潰れていた」とおっしゃっていた。人間、何かしらのゴールを定めてしまった時点でどうしてもそこに向かいたくなる。気持ちがその一点にとらわれる。最短時間・最短距離で行きたくなる。道は果てしない。ゴールはまだ全然見えてこない。急ぐ。無駄を省かなければならない。疲れる。焦る。気が遠くなる。心が折れる……

『風雲児たち』ほどの大長距離走に臨むには、ゴールを設定すること自体が危険なことだ。いつでも道を逸れていい、どこまでも逸れていい、なんなら来た道を戻って別の道でやり直しったっていい、おもしろそうな横穴があったら我慢せずに飛び込んでいい、珍しい虫がいたら何時間でも観察していい、誰かに呼び止められたら飽きるまで立ち話をしていい、何ならゴールとかしなくていい……これが大長編を描き続けるために必要な構えだ、ということを先生はおっしゃっていたのではなかったか。『風雲児たち』は教科書的な年表を物差しにすればたしかに道半ばで終わってしまったことになるけれど、同作の達成はその「距離」ではなく「面積」で測るべきなのかもしれない。この作品が縦横無尽に駆け回って踏み固めてくれた土地の広さ、深々と耕してくれた土壌の豊かさを考えると、未完という言葉がまた違う意味を持ってくる。

2013年に前任の林徹夫さんから先生の担当を引き継いで以来、毎月の原稿取りをはじめ『風雲児たち』に関わるあれやこれやのためお仕事場に出入りしてきた。白状するが私は先生の担当を引き継ぐまで『ホモホモ7』も『風雲児たち』も『レ・ミゼラブル』も何一つ読んだことがなく、VOWやタモリ倶楽部への熱心な投稿歴はもとより、先生が「作画グループ」をはじめとする同人活動を生涯大切にされてきたことすら知らないという、担当編集を任されるには度し難い無礼者だった。長年先生と歩みを共にされてきたご家族や熱心なファン、アシスタント、同人、漫画家、作家、学者、学芸員、編集者、評論家、記者、教育関係者……からすれば私は全くの新参者であり、実に半世紀を超える先生の画業と漫画研究におけるご功績について、今、私がその全体を知ったふりをして甘い感傷に溺れるようなことはしてはいけない気がしている。

先生のお母様が亡くなられた日のことを思い出す。その日、先生は日本テレビの「しゃべくり007」に出演する予定だった。俳優の杏さんからゲストとして呼ばれたのだ。朝、そろそろお迎えに上がろうかという時に先生から電話がかかってきて「行けなくなりました。先ほど母が亡くなりました。杏さんに手紙を書くのですぐに来てくれますか」とのことだった。私は広報部(当時)の鈴木健太郎と大急ぎでご自宅に向かった。かけがえのない母親を亡くされたのだ、先生の悲しみはいかばかりかと沈痛の面持ちでインターフォンを押した。私たちを招き入れた先生は無言だった。そしてお母様が眠るお部屋の襖を開けるなりこうおっしゃったのだった。「ご覧ください、死んでます」。うやうやしくもなんか胡散くさい先生の物腰、スコーンという描き文字とともにずっこける私と鈴木、白い面布の仏様。まさに『風雲児たち』の一コマのようだった。だから今、よよと泣き伏し畳を見つめて先生との思い出を一つ一つ噛みしめる私は「んなこたいーからさっさと風雲児たちの宣伝をせいっ」とハリセンでべしっとやられるに違いない。

お母様を亡くされた先生が悲しくなかったわけがない。しかし、ただ悲しいだけだったはずもない。人間はもっと複雑なものだということを教えてくれたのは他でもない『風雲児たち』だ。先生の死に対し、悲しいです、ご冥福をお祈りします、どうか安らかに、という追悼の本筋?をなぞるだけでは、先生を追悼することはできない気がして困ってしまう。

先生が私たちにとんでもなく大きな贈り物をくださったという強い手応え、そしてそれはこれからも万人に向けて開かれたものであり続けるだろう、という確信が私にはあって、これは『風雲児たち』が毎月描かれるその現場をご一緒した8年間で得たものだ。ここでいう「私たち」とは、今この時代に漫画を楽しんだことが一度でもある全ての人々のことだ。先生のお名前や作品を知らない人にとっては、いきなりひとくくりにされても……と感じるかもしれない。が、これを読んでくれているあなたが読み手か描き手かに関わらず「漫画っていいな、好きだな」という気持ちが少しでもあるならば、いや、「そんな気持ちは一切ない」という人の方が少ないだろうが、その気持ちの何パーセントかはみなもと先生からの贈り物なのではないかと私は思うのだ。

たとえば、あなたが漫画家Aさんのファンだったとして、Aさんは『ホモホモ7』の前衛的な手法から何かを掴んだ人かもしれない。仮にAさんがみなもと先生の作品を読んだことがなかったとしても、Aさんが憧れ師事したB先生はみなもと先生の作品に感銘を受けた方かもしれない。あるいは、あなたが敬愛するC先生には誰からも評価されない苦しい時代があって、あの時みなもと先生だけが味方でいてくださった、それがなければ現役を続けることができなかった、と振り返るかもしれない。商業作品全般に興味を失ったあなたがコミケを渉猟すれば、みなもと先生ご本人がご機嫌で同人漫画を販売しているのに出くわしただろうし、大好きなアニメ監督が『風雲児たち』の帯にコメントを寄せているかもしれない。誰かが愛する個別の作品の個別の系譜を丁寧に辿る時、どこかで必ずみなもと先生の足跡を見つけることになる。

このトーチ編集部のブログにみなもと先生への追悼文を載せる理由は、私がたまたまコミック乱で先生を担当してきたということもあるけれど、創刊7年とまだ若い雑誌であるトーチもまた、みなもと先生と決して無関係ではないことを、読者の方々や作家の皆さん、そして編集部のみんなに少し話しておきたいからでもある。

みなもと先生はトーチの作品もほぼ全てお読みになっていた。2014年8月の創刊以来、私が新刊をお届けすることが多かったが先生のほうから所望されることも少なくなかった。沢山の言葉を頂いた。「香港の方の、あれだけは絶対読んでおかなければならないので」「これはあなたのお兄さん? いいお兄さんをお持ちだ」「これはつげ義春、いや忠男でしょうか。こういう形で現代に蘇るんですね。すごいことです」「オールカラーでB5判、よくぞ出しました」「92年生まれ!? 何者ですか、この方は」「呉智英がえらい褒めてた。私にはちょっと怖かった」「この作家の存在に長いこと気づけないでいた自分が情けない」「これ読むとね、漫画を描くのが楽しくて仕方なかった頃のことを思い出すんです」……無論、先生が読まれていたのはトーチ作品に限った話ではなく、国内で刊行される新作をトーチ作品とそれ以外で分けるとしたら、当たり前だが後者を読むことに圧倒的に長い時間を割かれていた。先生は文化庁メディア芸術祭や手塚治虫文化賞の選考委員を務めていらして、毎年、各漫画賞の選考会前になると仕事場に続々と送り込まれ積み上げられる候補作品の山はのけぞるばかりであった。先生は「この齢になると体力が…」とぶつぶつ言いながらも、全て真剣にお読みになっていた。

みなもと先生は2016年の手塚治虫文化賞の選考会で『蝶のみちゆき』、同じく2017年に『SAD GiRL』と2年続けて高浜寛作品を熱烈に推されていたが、いずれも受賞を逃すことになった。先生は本当に悔しそうで、ちょっとここでは詳しくは書けないがおおむね「みんな何もわかっとらん」という感じで怒ってくださった。怒ってくださった、というのも変な言い方だが、作品のことを作者や編集者以上に真剣に考えてくれる人がいるという事実は、受賞することよりも遥かに心強いものがあった。そういった経緯もあり、翌2018年、みなもと先生がやはり選考委員を務める文化庁メディア芸術祭で『ニュクスの角灯』が優秀賞を受賞した時、私は嬉しくて先生に思わずお礼を申し上げたのだけど、その時先生から返ってきた言葉は恐ろしいもので、私は震え上がった。「受賞は全て作家の力によるものです。受賞すべき作品だから受賞した。それだけのことです。私にお礼を言うということは、あなたは今回の受賞が高浜さんの力ではなく私の力によるものだと考えていることになりますよ。それは高浜さんに対して失礼ではないですか?」。

先生の真剣さが最もわかりやすい形で読み取ることができたのはその怒りの中にであった。先生は誰にも分け隔てなく優しく、礼儀正しく接する方だったが、そういう風に接するからといってそういう風なだけの人間であるわけではない。何せあの『風雲児たち』の作者である。保科正之の叡智、平田靱負の献身、吉田松陰の苛烈さ、平賀源内の絶望、大黒屋光太夫の悲しみ、杉田玄白の野心と前野良沢の意地、岩倉具視のエグいほどの知略……無数の登場人物ひとりひとりの複雑な内面をあれだけの精度と強度で描き分けてしまう人のことを、優しい人と単純に片付けることはできない。先生はよく怒っていらした。先生の怒りが向けられるのは徹頭徹尾、漫画に対する権威主義的な無理解と抑圧に対して、であった。逆に言えばそれ以外のことで先生が怒るところを私は見たことがない。

私が林さんに連れられ初めて先生にお会いした時からして、先生はもう怒っていらした。私が名乗るか名乗らないかのうちに「はい、どうぞよろしく。ところであなたはさいとう・たかをが起こした革命についてどう思いますか。今の青年漫画の隆盛は1960年代にさいとう先生の原稿持ち込みがなければありえなかったものです。漫画が子どものものとされ、大人向けの漫画としては8ページが長編と言われていた時代に、青年向けはこれから絶対に儲かるから週刊誌はまずわしの劇画に20ページ割け、60ページ割け、100ページ割けと、さいとう先生が出版社にかけあってこのジャンルを開拓して下さった。評論家は誰もこのことを言いません。なぜ見て見ぬ振りをするのですか。情けないとは思いませんか」。いきなり始まったので相槌すら打てずにいると話はいつの間にか手塚治虫に移っており、先生は地下の書庫をせわしなく行き来しながら貴重そうな古い資料を並べ、当時重鎮とされていた……手塚先生の仇を取って……理事会に怒鳴り込んで……少女漫画がなければ叙情的表現は……ちば先生がどれほどの……あすなひろしのカケアミは……何か怒りをこめて説明しはじめた。私はよくわからなくてぼーっとしていた。横で林さんも多分ぼーっとしていた。帰り道で林さんが言った。「あれがみなもと太郎だ」。私は先生の話の半分も理解できていなかったのに、なるほど、と思った。自分以外の漫画家のことで怒り狂っているのがみなもと太郎なのか、と。

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私は何事でも、マンガを通してしか話せませんが
それで良ければ又付き合って下さい。
先ほど林さんが来られて、しばらく雑談しました。
池上遼一読み切りから中川さんの話も出て
林さんは非常に喜ばれてました。
あと
また一件、風雲児違法ダウンロードのサイトを発見したので
林さんに伝えました。
検索すれば、スグ出ます。
こんなサイトはいくらでもあるのかなあ…
ではまた、宜しく
                  太郎
(2013/03/26 受信メール)
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毎月原稿を頂きに上がった。本当に毎月。『風雲児たち 幕末編』は月30ページの連載だ。印刷所が設定した入稿の〆切日をこえ、校了日すらこえ、下版日の昼が先生専用の〆切りだった。冒頭で触れたように先生はネームをやらないので原稿の進捗は〆切前日になるまでわからず、最初は不安でたまらなかったが、先生はこの〆切りを破ったことはなかった。いや、普通の〆切はすでに破られているのだが、先生は先生の〆切りを破ったことはない。製版・印刷・製本・配本、各工程にどれくらいの時間がかかるかを熟知されており、編集者が切る〆切りの向こう側にある「本当の締め切り」を見極めておられた。間に合わなそうな月は「今月はちょっとまずい、8ページ減らしたい」と先生から電話が来るので急いで代原を用意し、編集長に台割を組み替えてもらうなど、対応に追われる。大変なので、減ページが3ヶ月続いた時は私もちょっと頭にきて「先生、毎月30ページが難しいようでしたら最初から22ページで台割を組みましょうか?」と言った。先生からは当然「ごめん、次からはページを減らさないでちゃんと30ページ描くようにする」という答えが返ってくるものと思っていたのだが、先生は予想に反して「ふん」と鼻で笑い「30ページ描く気でいるから22ページ描けているんです。最初から22ページを想定すれば、8ページ減らしたら14ページになっちゃうじゃないか。それでファンが納得すると思いますか」と言った。何言ってんだこの人! 何という屁理屈! しかし何だろうこの謎の説得力! 思わず笑ってしまった。

■2020年7月5日(日)お仕事場 
先生からご病気についての詳しいお話を伺う。
「3月までは飯もうまかったし呼吸も苦しくなかった。今は食事は面倒なのでおかゆ。肉食えうなぎ食え、体力つけるために動物性タンパクようけとれ言われてる」「仕事してる時の方が楽。横になって休んでいる時が一番苦しい」「治療でぐったりして仕事ができない状態があまりに長びくようだったら治療はやめようと思います」
(電話がかかってくる)
「はい、はい、それでひとつよろしく。」すごい元気な、威厳すらただよう声。電話を切り、こちらを振り返る。「ねえ、そんな中でもこうやって古本売ったり買ったり…」古本の売買の電話だったらしい。
34巻は予定通り出す。
35巻までは出したい。
文久2年を終わらせないと。文久2年は大変な年なんだ。新撰組は描かないとファンに怒られるかな。
四十代の時に大腸のポリープを取った。結果的に良性だったけど、癌の疑いもあるとのことであの時はとても怖かった。今回はあの時ほど怖くない。
他言無用。
乱には迷惑かける。
漫画家に言ったら広まる広まる(笑)。
シネマ歌舞伎のことがあるので三谷幸喜には伝えなければ。

■7月11日 お仕事場
6日〜入院していたが9日〜12日まで一時帰宅。13日から3週間、治療に入る。
まな板の鯉です。
3週間後に退院した時にはぐったりして車椅子が…という話になるそうです。
もし元気だったら8月の風雲児たち描きます。
先生と2人で34巻の入稿指定の確認。雑誌の刷り出しと原画を照らし合わせながら、1ページ1ページ、修正箇所を確認していく。見開きの原画が1枚なく、先生があちこちさがす。ペットボトルのコーラが机の間に落ち、ああしまった、取れないと先生が言うので、私が床に腹這いになり机の足と足の隙間に挟まった分厚いファイルをどかすととれた。一緒に埃まみれのハンドクリームも出てきた。先生、ハンドクリームが出てきましたよと言ったが先生は全然聞いておらず、すでに作業に戻っていた。作業がおわると、先生は「ああ、これでなんとかなった」とつぶやいた。「お疲れ様でした。ゲラお預かりします。またご連絡します」いつものように先生に見送られて玄関を出た。別れ際に先生が「どうも、本当にありがとう」と言った。

■8月18日 お仕事場
シネマ歌舞伎の冒頭アニメーション用の原画をお預かりする。車椅子でもなく、お元気そう。

■8月20日 お仕事場
シネマ歌舞伎のプログラム用のインタビュー収録。先生、ご家族、アシスタントさんたちと、みんなで歌舞伎座へ行った。先生と義太夫を聴く。

ここはいずくと問われたら
ここはいずくと問い返す
先の読めないこの世なら
前に向かって進むだけ
走れ光太夫
ふりかえるなよ
つきあかりめざすふるさと いせのうみ
走れ光太夫
泣くな光太夫
港は近いぞ

走れ光太夫
ふりかえるなよ
つきあかりめざすふるさと いせのうみ
走れ光太夫
泣くな光太夫
夜明けは近いぞ

■9月17日 編集部
先生からお電話。「聞きましたか?」「何をですか」「『風雲児たち』のあれ」「風雲児たちの、何ですか」「あれえ? 連絡するって言ってたんだけどなあ」。要領を得ない会話中に別の回線に電話。第49回日本漫画家協会賞コミック部門「大賞」受賞の報。編集局長に報告。フロアで拍手起こる。

■10月5日 お仕事場
受賞を受けて「コミック乱」に載せるコメントを頂く。
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「コミック乱」読者の皆様、休載が続きまして、ご心配をおかけしております。わたくし、いちおー元気ではありますが、療養はしばらく続けなければならない、めんどうくさい状況です。復帰には年内いっぱいくらい、かかりそうです。
「風雲児たち」関連の近況としましては、最新刊『風雲児たち 幕末編』第34巻、出ております。少しですが描き足し、描きおろしページもあります。
 また、三重県鈴鹿市の大黒屋光太夫記念館では、特別展「大黒屋光太夫と風雲児たち」が開催中です。光太夫に関する貴重な資料とともに、私の原画などが展示されています。こちらは11月23日までです。
 10月には「月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」のシネマ歌舞伎が封切りになりました。これがもう本当に素晴らしくて! 松本白鸚さん、松本幸四郎さん、市川猿之助さん、片岡愛之助さん……歌舞伎の世界の人々の芸の深さ、底力に圧倒される大傑作でございます。私はこの舞台を、通し稽古、歌舞伎座での本番、シネマ歌舞伎と鑑賞しましたが、何度見ても涙が出ます。この号が出る頃には劇場公開は終了していますが、観られなかった方、次の機会が訪れることを祈りましょう。私も祈ります。
 さて、「幕末編」の連載は「コミック乱」八月号掲載の第228話で止まっておりますが、次回、第229話の構想はすでにわたくしの頭の中にあるのです。はい。塙中宝暗殺が控えておりますね。それにあの遊女とかあの妓楼とかあの港とかとかとか、絵も何枚か上がっているのダ!
 何はともあれ連載再開をお待ちくださっている読者の皆さま、相すみません。いま少しご辛抱いただけますと幸いでございます。
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■11月6日 帝国ホテル
日本漫画家協会賞贈賞式。大賞受賞のスピーチ。ベレー帽をかぶり、明るく振る舞っておられたが、顔色はあまり優れなかった。奥様も心配そうだった。あとで聞いたところ、この日はあまり具合いがよくなかったそうだ。スピーチでは自分のことそっちのけで特別賞を受賞したコミケ準備会について長くお話されていた。「私が漫画家として一番苦しい時にコミケが助けてくれた。コミケがなかったら漫画を続けることができなかった」。帰りがけにバロン先生と少し話す。「コロナで、人がいなくてちょっと寂しいね」とおっしゃっていた。

■2021年1月20日 お仕事場
お元気そう。「年は越せないだろうと医者からは言われていたが、そう言われると俄然やる気が出てきた笑」。

■3月2日
幕末編5、23、24、31巻、重版の報告。

■6月8日 お仕事場
治療により薄くなっていた髪がふさふさに、しかも黒々しており驚く。背中も相変わらずしゃんとしている。「元気です!」
新聞記事を見せてくれる。
がん治療に光。膀胱がん、大腸がん、胃がん……生存率が高い順に並んでいる。
「私のはこれです」表の一番下。
「でも先生のご様子を見ていると、10年生きた世界初のケースになるかもしれませんよ」
「ねえ、私もそう思います」ニコニコされていた。
コミック乱の創刊22周年プレゼント用の色紙とコメントを頂く。
「ガンガン療養中でございます。そう遠くない未来に再びお目にかかることがあるかと思います」

■8月7日(土)
13時、奥様から電話。深夜に先生が亡くなったと聞く。言葉が出ない。翌8日(日)、先生に会いに行く。眠っているようだった。工藤稜さんが電話口で泣き崩れていたそう。帰りがけに奥様から書類をお預かりする。朝日新聞社「朝日賞」の推薦票。「推すとしたら平田弘史しかいない」とおっしゃっていたらしく、代筆を引き受ける。帰社。「風雲児たち長屋」の渡辺活火山さんからメール。足立守正さんからメール。

■8月17日
コミック乱に載せる訃報の最終確認。先生、すみません。何もできませんでした。ファンの方々に最新話をお届けすることができなかった。もっとできることがあったのではないか。

■8月20日
早朝、先生の訃報を朝日新聞が報じる。9時頃、その旨、渡辺活火山さんから電話。長屋でも今日訃報を出します。昼にリイド社のHPで公式に訃報を出す。

先生の涙を一度だけ見たことがある。TOHOスタジオに歌舞伎の通し稽古を見に行った時、市川猿之助さん演じる庄蔵と、片岡愛之助さん演じる新蔵の別れの場面だった。帰りがけに「先生、泣かれてましたね」と言うと「いや私はけっこう泣きますよ。泣くんですよ漫画家は。泣いている人物を描くときは自分も泣き顔になる、怒っている人を描く時は険しい顔になる。笑っている人物を描くときは笑ってしまう。テレビカメラは漫画家の手元ばかり映したがるけれど、漫画家を撮るなら下にカメラを置いて顔を撮影する方がずっと面白い。私は絶対撮らせないけど」。スタジオの外壁に『七人の侍』の巨大な壁画があり、先生がこれをバックに写真を撮ってほしいと言うので撮った。

どーも、おつかれさまでございます。インターフォンは鳴らさなくて結構。勝手にお上がり下さい。スリッパはここ、コーラは冷蔵庫、コップはこれ、氷はこっち。

大量の貸本漫画、昔の漫画、新しい漫画、同人誌。壁を埋め尽くす資料、資料、資料。分厚く膨らみ山積みになったスクリーントーンのファイル。古紙のすえたにおい。タバコの煙。ペンが走る音だけが響く静かな部屋。「あ、先生、このページ全然手ついてないじゃないですか!」「たろーさん、ここってこんな感じでいいの?」長年連れ添うアシスタントのお二人が時々声を出す。いつも半開きの窓から猫の「うなじ」が愛想なく入ってきて地下の書庫へ下りていく。「先生、もう時間が……」急かすフリをしながら私はこの時間が大好きだった。ここでこうして原稿を待つ時間が永遠に続けばいいといつも思った。完成した原稿をバイク便に渡し、翌月の〆切りを伝える。「先生、来月は取次の休配日があるので普段より1日早いです」「え〜、ひどいこと言うなあ」先生がカレンダーに印をつける。私は仲間達と同人誌を作ったことがないが、みんなで同人誌を作るのはこんな感じなのだろうか。

初めて先生にお会いしたあの時、漫画家でも漫画編集者でもない私を、先生は無条件で仲間に入れてくださいました。先生、ばばよしあきさんが亡くなった時、ばばさんの言葉を教えてくださいましたね。「創作にプロもアマもない」。先生はプロの漫画家もアマチュアの漫画家も、職業や年齢や性別や貧富や宗教や国籍や、そんなものはいっさい問わず仲間に入れてくださった。漫画を描く人、読む人、全ての人たちと一緒に夢中でいてくださった。

お別れの言葉がどうしても出てきません。これは先生が今も、そしてこれからも私たちのそばにいてくださるからだと思うのですが、先生はどう思われますか?

(編集部・中川)