トーチ

2025年12月14日 日曜日

バロン吉元『昭和柔俠伝』復刊によせて


『新装版 昭和柔俠伝』〈上〉の編集を進めていた折、作者・バロン吉元からとある問いかけがありました。

「作中における、現代では不適切とされる言葉表現を、このたびの復刊では改めるべきか。」

本書刊行時点(2025年11月)で、作者は85歳にして存命であり、月に50ページをひとりで描き上げながら月刊連載を行う、現役の漫画家です。
令和を生きるバロン吉元の意識は、現代の読者へ向けられている——作品を「いま」に届けたい思いから生まれたこの問いについて、作者と私は時間をかけて検討を重ねました。

✴︎

本作品で描かれる舞台は、昭和11(1936)年から昭和20(1945)年にかけての日本社会です。主人公・柳勘太郎が、生まれ育った満州を離れ、祖国・日本の地を初めて踏むところから物語は始まります。

およそ90年前の時代が背景であるがゆえに、作中には当時の社会通念を反映した描写が少なからず登場します。その中には、障害のある人や外国人に向けられた差別、男性中心的な構造に根差した女性蔑視、性的指向や性自認に関わる偏見など、今日から見れば看過しがたい場面も含まれます。
いつの時代、いかなる理由があっても、差別は容認されるものではありません。しかし、かつて来た道を振り返れば、それは歴史の中に確かに存在し、人々を傷つけ、いまも地続きのまま私たちの身近に存在している現実があります。

✴︎

『柔俠伝』シリーズでは、理不尽と不条理が渦巻く世の矛盾や混沌が、容赦なく描き出されます。明治・大正・昭和を背景に、親子四代にわたって描かれた柳一家の姿は、信念を貫く瞬間もあれば、時に揺らぎに身を委ねながら、ひたむきに「いま」を生きていく…激動の時代においても、強きを挫き弱きを助け、多情多感にして義侠心あふれるその在りかたを描くためには、歴史と正面から向き合い、背景を調べ、綿密な取材により「生」の声を拾い上げながら描写することを、作者は作劇の背骨と据えてきました。

また、本作は1971年から72年にかけて「週刊漫画アクション」(双葉社)で連載されました。作中の時代背景とは別に、70年代当時の文化、社会規範の影響も本作の随所に見受けられ、その中には前述した描写と同様、今日から見れば不適切な表現が含まれます。物語の内側にある〈戦前・戦中〉、作品が発表された〈戦後〉、そして私たちが生きる〈現在〉——『昭和柔俠伝』の復刊は、三つの時代それぞれにおいての異なる価値観を浮かび上がらせます。

この度の復刊では、連載当時の表現をそのまま収録する判断に至りました。歴史的文脈を損なわずに提示することが、差別や偏見が生まれ、根深く受け継がれてきた背景を理解し、人権意識を深めるための一歩になると考えたためです。元来の言葉を削除することは、当時差別の矛先が向けられていた人びとがいた事実をも、歴史から見えなくすることにつながります。作者と私は、あえて連載当時の表現を掲載することで、差別がどのように生まれ行われてきたか、そして人権の捉え方がどう変わってきたのかを伝えることが大切であると考えました。

また、本書刊行時点の判断基準によって言葉を差し替えることが、未来においても「適切」であり続けるとはかぎりません。今後社会が成熟へ向かうことを願うばかりですが、その時にはそれらが持つ意味や、向き合う人々の意識も同時に変わっていくことでしょう。私たちは、規範意識の変遷にともなって顕在化する、言葉、ひいては表現の問題に対して、「消す」よりも「位置づける」ことで向き合いたいと考えた次第です。

✴︎

バロン吉元は昭和15(1940)年、勘太郎と同じく満州に生まれました。
戦前から戦中、戦後へと移り変わる時代を駆けぬけるように、作者が成長過程で出会い触れてきた大人たちは、作中人物と世代を共有しています。
例えば勘太郎と作者の間には18の年齢差があります。
家族が宿屋やよろず屋、農業など多様な生業を営んでいたことから、日々の暮らしには人々の往来と交歓が絶えませんでした。その環境で培われたのは、善悪の単純な図式では捉えきれない、人間の多面性へのまなざしです。本作に広がる人物群像は、そうした経験が幾層にも重なって形づくられたものです。

作品が描き出す歴史の轍と人々の交わりを通して、私たちが「共に」生きていく社会の有りようを考えるきっかけとなればと思い、このテキストはその手がかりとして添えるものです。
激動の時代を手探りで迎える感覚は、私たちと勘太郎を確かにつなぎます。

「いま」を歩く一人ひとりの道しるべとなり、一隅を照らす燈火となることを願って、『昭和柔俠伝』を復刊いたします。

担当編集 エ☆ミリー吉元
※『新装版 昭和柔俠伝』〈上〉巻末テキストより

『新装版 昭和柔俠伝』〈上〉書籍・電子購入はこちら
『昭和柔俠伝』トーチwebで復刻連載中

//////おすすめ併読//////

新装・新編集版『柔俠伝』上・下
A5判/1300円+税/リイド社トーチコミックス

2019年に先行復刻されたシリーズ第1作。
舞台となるのは明治38(1905)年から大正12(1923)年にかけての東京。
講道館柔道・嘉納治五郎に敗れた古流柔術「起倒流」。師である父・秋水を稽古の末に亡くした柳勘九郎は、打倒・講道館の遺志を胸に、19歳で福岡・小倉から上京する。日露戦争の勝利祝賀に揺れる街。激動の世相を背景に、出会いと別れを重ねながら、時には挫折や未練を背負いこみ…やがて男は「鬼勘」と呼ばれ生きていく。

『昭和柔俠伝』は『柔俠伝』のストーリーを継ぐ一方、勘九郎の息子である勘太郎の物語が主軸として展開されるため、どちらの作品から読んでも、人物関係やテーマを把握できる読解導線を備えています。