<青雲荘210号室・高橋の部屋>
私が生まれ育った北海道・十勝の中札内村は、古代の氷河の地形が残る日高山脈のふもとにあった。NHK『なつぞら』のロケ地にもなった農村である。見渡す限りの畑と牧場、鬱蒼とした柏林、抜けるような青空と赤錆びた給水塔。過疎化のため鉄道が廃線になって以後、自家用車を持たぬ者が「町」(帯広市)に出るのはなかなか難しく、市内の高校に入学した私は親元を離れて下宿することになった。
藤丸デパートの裏手にあった下宿は古い木造の二階建て、玄関先には汚い犬が一匹つながれていて、人と見るや誰彼かまわず牙をむき吠えかかった。一階に大家の老夫婦が暮らし、二階の10部屋が私たち学生たちの部屋だった。
青雲荘というたいそうな名前がついていたが、もともと連れ込み宿だったものを看板だけかえて下宿を自称しているにすぎず、備え付けのベッドの裏にはかつての利用客が残した落書きが、数多の男女の体液で煮しめた雑巾のごときすえた臭いを放っていた。私が入居した203号室の落書きは他愛のない睦言が大半だったのに対し、不思議なもので、204号、205号、206号……と部屋が奥まり日当たりが悪くなるにつれて落書きの顔つきも悪くなり、廊下の最奥にある高橋の210号室になると、脅迫と呪詛と絶望の言葉がマジックともペンともつかない正体不明の黒い何かで全面に叩きつけられているのだった。
学生の本分は学業にありということで、青雲荘ではテレビの持ち込みが禁じられていたが、高橋はこっそり持ち込んでいた。私は当時ぜんぜん学校に行っておらず、昼ごろ起きて近所の喫茶店で漫画を読みふけり、夕方、部活が始まる頃合いを見計らって登校。バレーボールに汗を流し、帰宿後は風呂に入って飯を食い、テレビを見に高橋の部屋へ……そういう生活を送っていた。高橋の部屋は変なつくりになっていて、壁とベッドが一体化している上、それは喉元くらいの高さにあった。倒れこむには高すぎ、かといって梯子を使うまでもない中途半端な高さである。
バスケ部だった高橋は持ち前の運動神経によって手を使わずにそこに飛び乗ることができた。彼が主に採用していたのは三角飛びだった。対面の壁に向かって軽くジャンプし空中で壁をキック、その勢いでベッドへ。忍者のような軽やかさにいつも感心したものだが、彼が蹴る壁の向こうは看護学生の由美さんの部屋であり、どんづまったバンドマンの恋人に金をせびられ始め日夜苛立っていた当時の彼女にとって、その振動は耐え難いものがあったらしい。
月9で『ロングバケーション』がはじまると、みんな高橋の部屋に集まってくるようになった。事務机とベッドだけで一杯になる鰻の寝床に6人がぎゅう詰めである。何度か集まるうちそれぞれの定位置というものが自然にできてくる。ベッドの上には高橋と私、そして下宿で最年少の池本。ベッドの下には由美さんと、由美さんを慕って何かと一緒にいる千絵。千絵は私や高橋と同学年で書道部に所属していた。ベッド脇の机にひとり腰掛けているのは剣道部の主将で生徒会長の経験もある東村先輩。
その日は木村拓哉と山口智子がキスをするらしいという事前情報を千絵が仕入れてきて、みんないつも以上にうきうきした感じで集まってきた。しかし、途中から高橋と由美さんが口論になった。序盤から「嫌なら出てけババア」「殺すぞ童貞」みたいながやりとりがちょいちょいあったのが徐々にヒートアップ、東村先輩の制止もきかなくなり、ドラマが後半に入る頃には由美さんは高橋への罵詈雑言とともにベッドを下から突き上げるようにバンバン殴るようになっていた。それは上に座る私たちの体が軽く浮き上がるほど激しく、小柄な池本などベッドから転がり落ちそうになっていた。全員ドラマ鑑賞どころではなくなり、東村先輩が事情を確認したところ由美さんの高橋に対する不満は主に3つ。
①ベッドに乗る時にいちいち壁を蹴らないでほしい
②共用の流しを風呂がわりに使うのはやめてほしい
③流しの前にある巨大なバーベルがイヤすぎる
①については高橋が悪いが、②に関しては最初にそれを始めたのは池本である。きれい好きで部屋もきちんとしていた池本は下宿の汚い風呂場を嫌った。壁のぬめりや床のカビ、待てど暮らせど交換されないバスマット……大家の怠慢からくるそういったものに耐えられなくなった彼は二階の流しで身体を洗い始めたのだった。「大家のばばあぜんぜん掃除しないから、俺ここで身体洗ってやりますよ」と服を脱ぎ始めた池本を「いいぞ、やれやれ」みたいに皆ではやしたてたのがはじまりだったが、日常生活というのは恐ろしいもので、池本の中でこれが習慣化されるまでにさほど時間はかからなかった。由美さんは本来なら高橋ではなく池本にキレるべきだが、流しで身体を洗うことが意外に効率的であることがわかってからは高橋もこれを頻繁に行なっており、おやすみ前の由美さんが化粧水を片手に流しに行くと裸の高橋が長々と横たわっていることが2〜3回続き、きもすぎるということで怒りの矛先が高橋に向いた。
③のバーベルは、20キロのシャフトに15キロと10キロのプレートが2枚ずつ。合計70キロ。成人男性一人分の重さのバーベルが流しの前に鎮座していた。むろん筋トレ用である。バーベルを持ち込んだのは高橋ではなく私である。先に述べたように当時の私は学校はサボるのに部活には欠かさず行くほどバレーボールに熱中していたから、下宿でも筋力トレーニング、特にジャンプ力の強化を図りたいと考えた。バーベルは顧問の許可を得て高校の体育倉庫から私が持ち帰ったもので、自転車で運ぶのを高橋が手伝ってくれたのである。トレーニングは効果覿面で私は身長173㎝とバレーボール選手としては小柄ではあったがバスケットボールのリングに飛びついてぶら下がることができた。高橋もバスケを頑張っていたから、時々このバーベルで筋トレをしていた。私たちにとって大事なバーベルであった。しかし、これも生活サイクルのいたずらというべきなのか、おやすみ前に由美さんがアクアフレッシュ片手に歯磨きに赴いたところ、バーベルをかついだ半裸の高橋が独特の呼吸法とともにスクワットをしている場面に2〜3度続けて遭遇し、これもきもすぎるということで怒りの原因となった。
私と池本は我々にも非があることを正直に伝えた上で、真の巨悪は別にいる、それは風呂を掃除しなかったり十分なトレーニングスペースを確保しない大家であると主張をしてみたが「話すり替えてる。それって由美さんの気持ちとなんの関係もない」などと千絵がうるさいので全然うまくいかない。そうなると私も池本もムキになって、女たちを論破してやる、みたいなモードに入ってしまい由美さんの怒りは増幅。高橋はぶんむくれて黙りこみ、東村先輩の分別くさい言葉が空回りするたびに話は煮詰まり、そして煮崩れていった。
本当にどうかしてたとしか思えないが、最終的に相撲で決着をつけようということになった。しかもなぜか私と高橋の。
バカげた結論に思えるが、その時はみんな真剣で、誰もが納得いく平和的な解決策はもうこれしかないということになったのである。皆で廊下に出た。
池本が行司となり、はっけよいのこった、私と高橋はぶつかり合った。私は足腰の強さには自信があったが、先に述べたように高橋もまた同じだけ鍛えている。四つに組んだきり取り組みは膠着状態に入った。互いに相手の呼吸を読み隙を探る。気を抜いた方が負ける。
何やってんだバカタレが! 怒鳴り声がした。下宿のじじいが来たのだ。パチンコとイメクラ通いが生きがいの男である。何時だと、思ってんだ、この! じじいは言いながら、手近にいた池本、千絵、そしてもう一度池本の順に頭をひっぱたいた。東村先輩が事情を説明したが全く通じない。私がそのやり取りに気を取られた一瞬の隙を高橋は逃さなかった。見事な外掛け。完敗。大した奴だ。大の字にひっくり返りむしろ清々しい気持ちで天井を見上げていると、バカこの! じじいに頭をひっぱたかれた。警察呼ぶど! 高橋もひっぱたかれた。じじいの背中に隠れるようにしてばばあがこちらを睨んでいた。下宿人たちはそれぞれじじいに蹴り込まれるようにして各部屋に戻った。
翌週の月曜日、我々は『ロングバケーション』の続きを見るために再び高橋の部屋に集まった。高橋は三角飛びをやめた。流しでの入浴と筋トレは続けていたようだが、由美さんと遭遇しないよう細心の注意を払うようになっていた。相撲でどちらが勝っていたとしてもこうなったわけだから、相撲を取った意味は本当にいまだに謎である。由美さんの機嫌もなおり、ビールでも飲みますかと深夜まで酒盛りをしていると、何やってんだバカタレ! じじいがまた怒鳴り込んできた。おい、なしてこの部屋テレビあるんだ! 我々は全く反省せず、以後も同じことを繰り返したから、下宿人と大家夫婦との関係は悪化の一途を辿った。特に相撲の時ひとりだけ2回叩かれた池本はこれを根に持っており、ばばあの作る夕飯をわざと残して犬に食わせるなど嫌味なことを続けていると、ばばあは夕飯のカニクリームコロッケにパチンコ玉を忍ばせる過激な報復に出た。池本と高橋、東村先輩、そして私のに入っていた。これをきっかけに我々以外の下宿人も夕飯を敬遠するようになり、関係はいっそう泥沼化していった。
高校2年の終わりとともに高橋と私は下宿を引き払うことになった。素行が悪すぎると親に連絡が行き、出て行かざるをえなくなったのだ。引っ越し前日、空っぽになった高橋の部屋でなんとなくゴロゴロしていると、ベッドの裏側が目に入った。連れ込み宿時代の呪いの落書きに加え、それまで見たことのない、人の手形がいくつも張り付いている。ぎょっとして高橋に聞くと、あの時、ドラマを見ながらベッドの裏をバンバン殴っていた由美さんの手形なのだった。
〈了〉
(編集部員・中川)
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