トーチ

♯36 あなたのホーム、わたしのホーム
 
 
 十年以上前から同じ歯医者に通っている。友人から紹介されて通うようになったところで、めったに降りない駅の近くにあるので歯医者に行くときはしっかり「歯医者の気分」になる。

 重たいガラス扉を押し開けて中に入ると受付があって、名前を告げてからソファに腰掛ける。白い革張りのソファはふかふかしていて、ゆっくりと体が沈み込んでいく。奥の診察室から漂ってくる歯医者の匂いで鼻がくすぐったい。iPhoneを触りながら時間を潰していると、受付の電話が鳴りだした。電話の呼び出し音は、自分の実家のそれとまったく同じものだった。

 突如、「ホーム」に引き戻される。自分の体はソファに沈み込んだままだが、気持ちは完全にホームにある。受付の女性が電話をとると呼び出し音は鳴り止み、自分が再び歯医者に戻ってくるのを感じた。それはどこか幽体離脱する感覚と似ている。体はホームじゃないところにあるのに気持ちだけがホームにあって、体と魂がズレてしまっているような気分。もっとも、幽体離脱なんてしたことないけれど。

 そういうふうにして、生活していると急激にホームが呼び起こされて体と感覚がズレてしまうことがままある。ただし、視覚情報によってこうした感覚が引き起こされることはめったにない。概して聴覚や嗅覚からホームは潜り込んできて、すっかり体の中を占領してしまう。それはどこか罠に似ている。街のあちこちには誰かのホームを作動させてしまう罠がたくさん張り巡らされていて、同じ罠でも引っかかる人と引っかからない人がいる。歯医者で聞いた電話の呼び出し音が、ぼくと一緒に診察の順番を待っていた女性にとってはただの呼び出し音でしかないように。

 ただし、言うまでもなくこれは自分が実家に二十年近く住んでいたからこそ生じる現象なのであって、二〜三年程度住んだ家・部屋の要素がホームを引き起こすことはあまりない。だから多くの人のホーム感を形成しているのは実家のあれこれなのかもしれない。あるいは、実家からの反動として最初のひとり暮らしが強烈にホームを形成することもあるのだろうか。

 わたしたちが「ホーム」というとき、それはざっくりと同じようなものをイメージしていることもあれば、もちろんバラバラなこともある。ぼんやりと広く共有されているホーム像はしかし、果たしてどこまで共有可能なものなのだろうか。東京のぼくが想像するホームと、ロンドンの誰かが想像するホームと、バリ島の誰かが想像するホームと、南アフリカの誰かが想像するホーム。それはどれだけ同じで、どれだけ違うのだろう。同じところがあるとすれば、いったいなぜそれは同じなのだろうか?

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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
http://motesl.im/
https://www.instagram.com/moteslim/

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2003年にキヤノン写真新世紀で荒木経惟氏より優秀賞を受賞、写真家としてのキャリアをスタートさせる。広告、雑誌、CDジャケット、PV等幅広く活躍中。
著書に『働けECD――わたしの育児混沌記』(ミュージック・マガジン)、『かなわない』(タバブックス)、『家族最後の日』(太田出版)がある。
『文藝』(河出書房新社)にて「24時間365日」を連載中。
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1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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